オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー【DVD】
2011年11月14日 映画
仮面ライダー40周年記念作品。
電王とオーズが出会って過去に戻り、コアメダルを落としてきたら、ショッカーが世界制服を成し遂げていた。って馬鹿な話。
ラストにはすべてのライダーが登場。
おまけで東映キャラクターといえばなヒーローまでもが。
ショッカーの首領は超巨大に変身するわ、
普通のバイクで空飛ぶわ。
もう、ハチャメチャ。
映画らしい映画って、こんなのだったかもしれない。
んな、アホな~、な爽快感抜群。
ここ数作品を見てないとちょっとキャラ設定がわからないかもしれないけれど、案外オススメの作品でした。
あー、わらえたー。
何にも考えなくていいって、素晴らしい。
電王とオーズが出会って過去に戻り、コアメダルを落としてきたら、ショッカーが世界制服を成し遂げていた。って馬鹿な話。
ラストにはすべてのライダーが登場。
おまけで東映キャラクターといえばなヒーローまでもが。
ショッカーの首領は超巨大に変身するわ、
普通のバイクで空飛ぶわ。
もう、ハチャメチャ。
映画らしい映画って、こんなのだったかもしれない。
んな、アホな~、な爽快感抜群。
ここ数作品を見てないとちょっとキャラ設定がわからないかもしれないけれど、案外オススメの作品でした。
あー、わらえたー。
何にも考えなくていいって、素晴らしい。
依存の訳語案「頼み」
2011年11月13日 日常昨日の日記「dependence」を書き終え、
なんだかスッキリせん日記だなぁと思いつつ、一晩寝るといい訳をおもいついた。
「頼み」
酒頼み、ギャンブル頼み、シャブ頼み。
ピッタリとはまる。
そして、この訳語の一番大事なところは「頼み」の相手を変えれば問題ない。という希望があることだ。
酒やギャンブルみたいな生産性の無い物を頼るから問題が起きているだけだ。
頼るものを変えれば、問題はなくなる。
という強いメッセージが込められている。
だからWHOで「dependence」が採用されたんだと思う。
日本語の「依存症」という単語には難点が二つある。
依存という言葉が良くないイメージを持つこと、
そして「症」と付ける事で病気として固定化してしまうことだ。
そもそもWHOでは「依存症」という言葉は使わない。
薬物依存やアルコール依存などはあっても、それらをまとめて「依存症」とはしない。
理由は英語脳に切り替えて考えればすぐ分かる。
「頼る症」なんて単語は、どう考えてもおかしいからだ。
何かに頼ることが「病気」なのであれば、人類全員が病気だ。
株のシステムに頼り、工場生産に頼り、農家に頼っている。
家族や友人や取引先や協力会社に頼っている。
問題は、「何に」頼っているかであって、頼ることは問題ではない。
依存という単語には、その意味が含まれていない。
依存=良くない。と言外で頼る事を否定している。
頼ることを否定しては人は生きていけない。
ま、精神科の医者は「依存症」とした方が儲かりそうではある。
頼ることを否定して生きなさい。と言えば死ぬまで「治療」できるだろう。
依存症という言葉の罠には、
日本語に敏感な人ほどはまりやすい。
気をつけろー!(by 長井秀和。古っ)
なんだかスッキリせん日記だなぁと思いつつ、一晩寝るといい訳をおもいついた。
「頼み」
酒頼み、ギャンブル頼み、シャブ頼み。
ピッタリとはまる。
そして、この訳語の一番大事なところは「頼み」の相手を変えれば問題ない。という希望があることだ。
酒やギャンブルみたいな生産性の無い物を頼るから問題が起きているだけだ。
頼るものを変えれば、問題はなくなる。
という強いメッセージが込められている。
だからWHOで「dependence」が採用されたんだと思う。
日本語の「依存症」という単語には難点が二つある。
依存という言葉が良くないイメージを持つこと、
そして「症」と付ける事で病気として固定化してしまうことだ。
そもそもWHOでは「依存症」という言葉は使わない。
薬物依存やアルコール依存などはあっても、それらをまとめて「依存症」とはしない。
理由は英語脳に切り替えて考えればすぐ分かる。
「頼る症」なんて単語は、どう考えてもおかしいからだ。
何かに頼ることが「病気」なのであれば、人類全員が病気だ。
株のシステムに頼り、工場生産に頼り、農家に頼っている。
家族や友人や取引先や協力会社に頼っている。
問題は、「何に」頼っているかであって、頼ることは問題ではない。
依存という単語には、その意味が含まれていない。
依存=良くない。と言外で頼る事を否定している。
頼ることを否定しては人は生きていけない。
ま、精神科の医者は「依存症」とした方が儲かりそうではある。
頼ることを否定して生きなさい。と言えば死ぬまで「治療」できるだろう。
依存症という言葉の罠には、
日本語に敏感な人ほどはまりやすい。
気をつけろー!(by 長井秀和。古っ)
リピーターズ [DVD]
2011年11月12日 映画
依存症リハビリ施設の男女3人が何度も同じ日を繰り返す永遠のループにはまった。
何をやっても、朝起きると水曜日。次の日に進めない。
一体、何をどうすれば良いのか!
(この後ストーリーの核心をバラします。)
もちろん、設定を考えれば、結論は一つしかない。
依存の原因に対面し、乗り越えないといけないわけだ。
一人は薬物依存。一人はレイプ。もう一人は暴力を振るう父だ。
なかなかなエンディング。
人生そのものとも言える。
人は自分と対面し、対決しなければ明日へ進めない。
永遠の足踏みだ。
しかし、このように、問題の核心に気付いている人は、幸せとも言える。
人生は複雑に絡み合い、心の傷は、幾つも幾つも重なり、一番奥にある思い出すだけで痛い記憶は、思い出すだけで痛い。思い出さないように、巧みに隠す。
そして問題をより複雑にしてゆく。
例えば、痛さの少ない問題を、自分の核心だと思い、信じ込む。そしてそれを克服する。自分は克服した、もう、治ったと安心し、一番奥にある傷を放置する。
これは地獄だ。克服したはずなのに、何か、変だ。そのことは、本人が一番良くわかっている。分かっているけれど分かりたくない。永遠に続くジレンマ。
そこまで辛いものは、映画なんてエンターテイメントには重すぎる。
何をやっても、朝起きると水曜日。次の日に進めない。
一体、何をどうすれば良いのか!
(この後ストーリーの核心をバラします。)
もちろん、設定を考えれば、結論は一つしかない。
依存の原因に対面し、乗り越えないといけないわけだ。
一人は薬物依存。一人はレイプ。もう一人は暴力を振るう父だ。
なかなかなエンディング。
人生そのものとも言える。
人は自分と対面し、対決しなければ明日へ進めない。
永遠の足踏みだ。
しかし、このように、問題の核心に気付いている人は、幸せとも言える。
人生は複雑に絡み合い、心の傷は、幾つも幾つも重なり、一番奥にある思い出すだけで痛い記憶は、思い出すだけで痛い。思い出さないように、巧みに隠す。
そして問題をより複雑にしてゆく。
例えば、痛さの少ない問題を、自分の核心だと思い、信じ込む。そしてそれを克服する。自分は克服した、もう、治ったと安心し、一番奥にある傷を放置する。
これは地獄だ。克服したはずなのに、何か、変だ。そのことは、本人が一番良くわかっている。分かっているけれど分かりたくない。永遠に続くジレンマ。
そこまで辛いものは、映画なんてエンターテイメントには重すぎる。
dependence
2011年11月12日 日常依存と依存症は違う。
何が違うか。誰でもわかる。病気か否かだ。
病気は医者しか診断出来ないし、医師免許を持たずに、診断や治療を行うのは違法行為だ。いや、例え医師であったとしても、本人の同意なく治療を行ったら、傷害罪で起訴される。病気の扱いは慎重にしなければならない。
ましてや「依存症」となると精神疾患に属し、医師免許も持たずに「あなたは依存症だ」などと言おうものなら、名誉毀損で訴えられてしかるべきである。
ま、こんな極端な例を力説しても仕方ない。
WHOで依存が定義されて以来、嗜好、嗜癖という言葉が衰退し、依存の言語力が増してきた。
依存。何だかみょうな単語だ。
こういう単語は気をつけた方がいい。
誰かが作って、こなれてない単語だと感じる。
元々の英語を調べる。
「dependence」とでた。「デペンデンス」。
映画「インデペンデンス・デイ」で宇宙人に勝利した米大統領が「今日が私たちのインデペンデンス・デイ(独立記念日)だ!」と叫んでいたのを思い出す。
「インデペンデンス」の頭に付いてるインは、否定形の接頭辞インであり、デペンデンスの逆という成り立ちの単語だ。
日本では、「依存」よりも「独立」の方がメジャーと感じるのではないか。
しかし、英語では、「独立」は「依存の逆」であり、「依存」よりも後に出来た単語だ。そういう常識を英語圏の人間なら口に出すたびに、常に感じているはずだ。
その語感を無理矢理日本語化すれば「独立」は「非依存」である。
英語の語感的には「独立」などという単語はなく「非依存」という単語しかない。
依存の方がメジャー。なんだか納得しにくい。
で、その「依存」の元となる単語「dependence」を調べると、「1. 依存 2. 信頼」とある。信頼と依存は同じ意味だったのだ。英語で依存は決して悪い単語ではない。幼児が親に依存するのは当たり前で、甘い香りのある単語である。恥ずかしくてお父さんの足に掴まりモジモジしている。というのが「depend」の語感だと思う。「甘え」か、いや、「頼る」に近いのではないか?
そう納得し、もう一度、無理矢理日本語化すれば、
「依存と依存症」は、「信頼と信頼症」と訳せる。
「信頼」するばかりでなにもせず、本人や周囲に迷惑をかけるようになると「信頼症」と名付けて病気とする。
うん、これなら納得できる。
何事も、やり過ぎると病気だ。
どこからが「過ぎ」なのかは、かなり難しい問題になるのだろう。
英語の輸入は、かくの如く難しい。
訳語だけで理解するととんでもない感覚の違いを生み出す。
受験の時の遠い記憶ではdependの構成要素pendは、もたれる、だったように思う。
人と人とが持たれあって、人という漢字は出来ている。というのに似ている。
イギリスとの信頼関係が潰れ、傷ついたアメリカは「非信頼戦争」を起こした。
そういう風に翻訳すると祭り上げられている「独立戦争」も捉え方が変わる。
若者が大人になる時、必要な過程だとは思うが、悲しい出来事だと思えてくる。
お互いを信頼し、頼れるところは、頼りにする。
頼られたら、出来る限り期待に応える。
そんな関係を一人でも多くの人と築ける事が、幸せだと思う。
【追記】
書いた後で調べてみると、pendは、ペンダントのpendであり、「ぶら下がる」でした。なんかちょっと、あまりに違うから、本文直すのめんどくさそうのでやめておきます。あー、イイカゲンなオレー。(謝)
何が違うか。誰でもわかる。病気か否かだ。
病気は医者しか診断出来ないし、医師免許を持たずに、診断や治療を行うのは違法行為だ。いや、例え医師であったとしても、本人の同意なく治療を行ったら、傷害罪で起訴される。病気の扱いは慎重にしなければならない。
ましてや「依存症」となると精神疾患に属し、医師免許も持たずに「あなたは依存症だ」などと言おうものなら、名誉毀損で訴えられてしかるべきである。
ま、こんな極端な例を力説しても仕方ない。
WHOで依存が定義されて以来、嗜好、嗜癖という言葉が衰退し、依存の言語力が増してきた。
依存。何だかみょうな単語だ。
こういう単語は気をつけた方がいい。
誰かが作って、こなれてない単語だと感じる。
元々の英語を調べる。
「dependence」とでた。「デペンデンス」。
映画「インデペンデンス・デイ」で宇宙人に勝利した米大統領が「今日が私たちのインデペンデンス・デイ(独立記念日)だ!」と叫んでいたのを思い出す。
「インデペンデンス」の頭に付いてるインは、否定形の接頭辞インであり、デペンデンスの逆という成り立ちの単語だ。
日本では、「依存」よりも「独立」の方がメジャーと感じるのではないか。
しかし、英語では、「独立」は「依存の逆」であり、「依存」よりも後に出来た単語だ。そういう常識を英語圏の人間なら口に出すたびに、常に感じているはずだ。
その語感を無理矢理日本語化すれば「独立」は「非依存」である。
英語の語感的には「独立」などという単語はなく「非依存」という単語しかない。
依存の方がメジャー。なんだか納得しにくい。
で、その「依存」の元となる単語「dependence」を調べると、「1. 依存 2. 信頼」とある。信頼と依存は同じ意味だったのだ。英語で依存は決して悪い単語ではない。幼児が親に依存するのは当たり前で、甘い香りのある単語である。恥ずかしくてお父さんの足に掴まりモジモジしている。というのが「depend」の語感だと思う。「甘え」か、いや、「頼る」に近いのではないか?
そう納得し、もう一度、無理矢理日本語化すれば、
「依存と依存症」は、「信頼と信頼症」と訳せる。
「信頼」するばかりでなにもせず、本人や周囲に迷惑をかけるようになると「信頼症」と名付けて病気とする。
うん、これなら納得できる。
何事も、やり過ぎると病気だ。
どこからが「過ぎ」なのかは、かなり難しい問題になるのだろう。
英語の輸入は、かくの如く難しい。
訳語だけで理解するととんでもない感覚の違いを生み出す。
受験の時の遠い記憶ではdependの構成要素pendは、もたれる、だったように思う。
人と人とが持たれあって、人という漢字は出来ている。というのに似ている。
イギリスとの信頼関係が潰れ、傷ついたアメリカは「非信頼戦争」を起こした。
そういう風に翻訳すると祭り上げられている「独立戦争」も捉え方が変わる。
若者が大人になる時、必要な過程だとは思うが、悲しい出来事だと思えてくる。
お互いを信頼し、頼れるところは、頼りにする。
頼られたら、出来る限り期待に応える。
そんな関係を一人でも多くの人と築ける事が、幸せだと思う。
【追記】
書いた後で調べてみると、pendは、ペンダントのpendであり、「ぶら下がる」でした。なんかちょっと、あまりに違うから、本文直すのめんどくさそうのでやめておきます。あー、イイカゲンなオレー。(謝)
暴力とは何なのか?
主体が元々普通に行えていた事を他者により阻害することである。
…意味がよくわからない。
物理的暴力は解りやすい。身体的接触がある。
肩に手を置いただけでも、暴力と言われれば、暴力である。
ポイントは、「言われれば」である。
励ましたつもりで肩を叩いても、「痛い」と言われれば、暴力である。
セクハラの定義と似ていると思う。
セクハラも、「受けた側がセクハラと感じたらセクハラ」である。
夫婦の営みであろうと、妻が「イヤ」と言ったら、セクハラであり、肉体的接触を伴う場合は「家庭内暴力」である。
言葉による暴力も同じだ。
「親切」で説得しているつもりでも、受けた側が「暴力だ」と感じたら暴力だ。
子供に「叱っている」つもりでも、子供が「恐怖」を感じた時点で「暴力」に変化している。
この判断は非常に難しい。
自分のしている事が「教育」なのか「暴力」でしかないのか。
与えているのか、奪っているのか。
子供は親が絶対であるだけに、言葉が出ない。
親は「イヤ」と言われなければ、「大丈夫」と判断してしまう。
人間は、自分に甘い。
暴力は、短期的な結果は出すことができるが、
長期的には、「百害あって一利なし」だと、私は実感している。
暴力で傷ついた心を癒すためには、大変な時間がかかる。
私自身、衝動的にポンポンと言い返したりする。
その言葉が非常にキツすぎて心がギューっと縮まってしまうと、最初の師匠にも言われたし、妻にも言われた。
以来、気をつけていたつもりだが、「理由」があると歯止めが効かなくなる。
「子供のしつけ」だとか「社会正義」だとかだ。
いくらどれほど正しい理論背景があろうと、他人を傷つけていい論理なんて、なんか変だ。そんな理論を沢山身につければ身につけるほど、「正しさ」にこだわり、「誤り」を排除し、攻撃的な人間に変化してゆく。
そもそも、「暴力はいけない」という主張自体も暴力的だ。
何も否定することなく、幸せな世の中を紡ぎ出す。
それは、実は、簡単なことなはずだ。
ただ、認めるだけでいい。
それだけの、はずだ。
主体が元々普通に行えていた事を他者により阻害することである。
…意味がよくわからない。
物理的暴力は解りやすい。身体的接触がある。
肩に手を置いただけでも、暴力と言われれば、暴力である。
ポイントは、「言われれば」である。
励ましたつもりで肩を叩いても、「痛い」と言われれば、暴力である。
セクハラの定義と似ていると思う。
セクハラも、「受けた側がセクハラと感じたらセクハラ」である。
夫婦の営みであろうと、妻が「イヤ」と言ったら、セクハラであり、肉体的接触を伴う場合は「家庭内暴力」である。
言葉による暴力も同じだ。
「親切」で説得しているつもりでも、受けた側が「暴力だ」と感じたら暴力だ。
子供に「叱っている」つもりでも、子供が「恐怖」を感じた時点で「暴力」に変化している。
この判断は非常に難しい。
自分のしている事が「教育」なのか「暴力」でしかないのか。
与えているのか、奪っているのか。
子供は親が絶対であるだけに、言葉が出ない。
親は「イヤ」と言われなければ、「大丈夫」と判断してしまう。
人間は、自分に甘い。
暴力は、短期的な結果は出すことができるが、
長期的には、「百害あって一利なし」だと、私は実感している。
暴力で傷ついた心を癒すためには、大変な時間がかかる。
私自身、衝動的にポンポンと言い返したりする。
その言葉が非常にキツすぎて心がギューっと縮まってしまうと、最初の師匠にも言われたし、妻にも言われた。
以来、気をつけていたつもりだが、「理由」があると歯止めが効かなくなる。
「子供のしつけ」だとか「社会正義」だとかだ。
いくらどれほど正しい理論背景があろうと、他人を傷つけていい論理なんて、なんか変だ。そんな理論を沢山身につければ身につけるほど、「正しさ」にこだわり、「誤り」を排除し、攻撃的な人間に変化してゆく。
そもそも、「暴力はいけない」という主張自体も暴力的だ。
何も否定することなく、幸せな世の中を紡ぎ出す。
それは、実は、簡単なことなはずだ。
ただ、認めるだけでいい。
それだけの、はずだ。
まだ喫煙者を擁護するには早いのか?
2011年11月11日 日常たまたま、いつものメルマガを処理していたら、こんなの発見。
森永卓郎「たばこ増税はかえって財政悪化を招く――「禁煙原理主義」の暴走を許すな」
http://www.nikkeibp.co.jp/article/sj/20111101/289206/
知らなかった事実だが、喫煙者はまだ、21.7%も居る。
5人に一人が喫煙者。
うーん、そろそろ喫煙者擁護を始めなければ、いかんとは思っていたが
ちょっと多すぎる気もする。
日本人は普及率が50%を越えると急速に伸び出し、すぐに90%まで達するという話を聞いたことがある。
禁煙ブームの普及率も50%を越えたので、急速に90%に近づくんだろう。
そう考えると、喫煙者擁護もそろそろ始めなければ、「喫煙者なんて死ねばいいんだ」なんて暴言がまかり通りそうだ。
集団リンチが始まる。
森永氏が喫煙者なのかどうかしらないが、おもしろい論理を書いていた。
煙草はイカン!という人の説で「肺がん発症者が増えたら社会保険料負担が増えて、国民全体に迷惑を及ぼす」という論理が有名だが、その裏を突いていておもしろい。
たしかに、煙草が1000円とかになると子供は手を出せなる。入り口が狭くなると、喫煙者はゼロに限りなく近づくだろう。
私も、「国民全体に負担が…」という論理は、かねてから、訴訟大国アメリカの、なんだか言いがかりっぽい理屈だとは思っていたが、同じ社会保障の金銭面で論理展開しても、逆の立場に立つと、こんな主張も出来るんですね。
論理とは、立場からの主張の場合が98%だと言う。
ひとつの論理には、必ず逆説がある。
だから、
誰かをいじめるための論理って、とにかくキライです。
森永卓郎「たばこ増税はかえって財政悪化を招く――「禁煙原理主義」の暴走を許すな」
http://www.nikkeibp.co.jp/article/sj/20111101/289206/
知らなかった事実だが、喫煙者はまだ、21.7%も居る。
5人に一人が喫煙者。
うーん、そろそろ喫煙者擁護を始めなければ、いかんとは思っていたが
ちょっと多すぎる気もする。
日本人は普及率が50%を越えると急速に伸び出し、すぐに90%まで達するという話を聞いたことがある。
禁煙ブームの普及率も50%を越えたので、急速に90%に近づくんだろう。
そう考えると、喫煙者擁護もそろそろ始めなければ、「喫煙者なんて死ねばいいんだ」なんて暴言がまかり通りそうだ。
集団リンチが始まる。
森永氏が喫煙者なのかどうかしらないが、おもしろい論理を書いていた。
煙草はイカン!という人の説で「肺がん発症者が増えたら社会保険料負担が増えて、国民全体に迷惑を及ぼす」という論理が有名だが、その裏を突いていておもしろい。
そして、一番大きな財政への影響は年金だ。厚生労働省研究班の調査によると、たばこを吸っている40歳の男性が禁煙をすると、平均余命が1.8年伸びるという。つまり、その期間年金を余分に支払わなければならないことになる。
現在の年金支出は国全体で43兆円だが、もし国民全体の24%を占める喫煙者が全員禁煙したとすると、年金支出は1兆2000億円増える。今回の値上げで減る喫煙者が1割程度だとしても、年金の負担は年間1200億円も増えるのだ。
しかも、年金支給額は、今後の高齢化の進展で加速度的に増えていく。100年後には3倍以上になるのだ。
たばこ増税は今後も続くだろうから、やがて一部の金持ちを除いて、誰もたばこを吸わなくなる。そのときの年金負担増は、毎年3~4兆円に膨れ上がるだろう。
たしかに、煙草が1000円とかになると子供は手を出せなる。入り口が狭くなると、喫煙者はゼロに限りなく近づくだろう。
私も、「国民全体に負担が…」という論理は、かねてから、訴訟大国アメリカの、なんだか言いがかりっぽい理屈だとは思っていたが、同じ社会保障の金銭面で論理展開しても、逆の立場に立つと、こんな主張も出来るんですね。
論理とは、立場からの主張の場合が98%だと言う。
ひとつの論理には、必ず逆説がある。
だから、
誰かをいじめるための論理って、とにかくキライです。
あちこちに返信するのは面倒だし、
一度、まとめておいてもいいかなとは思っていたので、かなり長くなりそうだけど、私が喫煙に関して思ったこと、やった事、いま考えていることをまとめておく。
たぶん、これまでの日記でも書いた事と重複することも多いと思う。ご容赦願いたい。
私のタバコ歴を概観すると、生まれてから18年吸わず、その後15年吸い、15年前から吸っていない。
一番吸っていたのは、日常的に吸わなくなる前の時期で、一日に1箱半だ。
その1年前までは、2日で1箱が標準だった。
人によるが、1日10本では、ヘビースモーカーとは言えないと思う。
いま考えると、たばこを吸っていたのは、好奇心でしかなかった。
大人が吸っていたから、大人みたいになりたい。というのが最初だ。
最初は小学校5年ぐらいにオヤジのタバコを盗み吸いしてみた。
吸った途端に「クラクラ〜」と来て、「あ、オヤジはタバコと称して麻薬を吸っている。」と思ったものだ。かわいい。
常習的に吸うのは高校生の時だ。
かっこつけたかったというおきまりのものだ。
タバコなんて、美味いと思ったことはなかった。
だから、ミントの粒をタバコに埋め込んで吸っていた。
そんな、「誰も知らない吸い方」を知っている事がカッコイイと思っていた。
だが、高校生は金がない。
常態的なバイトもしていなかった。
お小遣いの範囲で買えるタバコの量は、月に一箱って所だったと思う。
仕事をするようになって、ニコチンと付き合うようになる。
ニコチンとカフェインだ。
最初に働いた会社の師匠が、ドリップコーヒーと「ジョーカー」を欠かさない人だった。
演出家という職業を効果的に見せるためだろう、あまり売られていない「ジョーカー」一辺倒だった。
スリムで長く、茶色いタバコ、名前が「ジョーカー」。
古式ゆかしき「演出家」を自ら演出していたのだろう。タバコとはそういう役割があった。
私は、「SomeTime Lite」だった。軽やかな三角形の背景にSomeTimeという若々しさが好きだった。
バブルがもうすぐ来る時代を象徴している。
結婚し、夢より金になり、舞台より企業イベントの会社へ移る。
やりたい事がやらねばな事になる。
社長の一言で平面の仕事どころか職種まで変わる。
カフェインとニコチンがないと仕事が出来なくなる。
その頃、アメリカで喫煙者は出世できないという情報が入ってくる。
インターネットが世間を変革するなんて情報が入ってきても、世間では「???」と反応すら出来ない頃だ。
まだまだ仕事はワープロだったんだから仕方がない。
パソコンに電話線を繋いでいたのは、会社の中のみならず、仕事仲間であと一人いただけの時代だ。
いまでも仕事で付き合っている人がタバコ嫌いだった。
すべての人に「タバコをやめろ」と言っていた。
それは、「自分が迷惑だから」でしかなかった。
だから、その人の言葉に従うのはいやだった。
だが、アメリカの圧力からか厚生省の考え方か、その頃からタバコのパッケージに小さく、注意書きが入るようになった。
世論は、なんとなく、禁煙へと向かい始めていた。
もちろん、そんな後押しはあった。
世間の雰囲気は、自分の意思に影響を与える。
それは間違いないし、それがイヤだとも思わない。
やめるのなら、止めた方が便利そうだな。という思いもでてきていた。
「大人への憧れ」とか、「カッコイイ」とかが理由なら、「面倒だな」でやめるのは、ありだ。
だけど、私が日常的にたばこを吸わなくなったのは、少し違う思いがあった。
あれは、仕事できる人間達が大量に辞めてへとへとになっていたときのことだ。
会社には数代のパソコンが導入されていた。
パソコンの前に、コーヒーと灰皿とタバコとライターを置く。
手はブラインドなので、モニターだけをひたすら見つめる。
モニターだけを見て、タバコを咥え、珈琲をすする。
珈琲の渋みと煙草のヤニが口の中を支配して気分が悪くなる。
くわえた煙草を灰皿に押しつける。
押しつけるために、ふと、灰皿を見る。
すべての煙草が長い。
先の1cmぐらい吸って、すべて消している。
私は、何をしているんだろう。
一粒の米にも七人の神さまがいる。神は本当には居ないが私たちの口に届くまでに七人以上の人々が大事に大事にお米を育てているんだから、一粒を大事にしなさい。と爺さんが言っていて、その言葉は、大事だなと思って暮らしてきた。
米に七人の神さまが居るなら、煙草にも5人や6人はいるだろう。
私は、この煙草に何をしているのだろう。
煙草がかわいそうだ。
そして、煙草をこんな目に合わさなきゃ出来ない仕事って、本当に正しいのだろうか?
すくなくとも、こんな進め方でするのは、正しくない。
それ以来、仕事のやり方を変えた。
出来ないものは出来ないと言うようにした。
そして、「本当にうまい煙草しか吸わない」と決めた。
ニコチンが切れて、次のニコチンを摂取したいから吸う煙草とか、食後に広がる血管を無理矢理収縮させて気持ちよるなるための薬物としての煙草とか、ダウナー系の薬物アルコールにより、ダウンさせた神経をアッパー系の薬物ニコチンで闘わせて、より危険な状態にさせて楽しむ喫煙とか、そんな煙草は吸わない。
「煙草」が「煙草」として純粋に楽しめる状況でなければ吸わないと決めた。
いざ、決めてみると、本当に煙草を吸いたい状況はほとんどなかった。
以来、15年間、吸った煙草は、多分、5本程度だろう。
しかも、最初の10年間は、たぶん、一本も吸ってない。
その10年は、禁煙ブームへの10年間だった。
煙草のパッケージに書かれる文章は徐々に大きくなり、
テレビCMがなくなり、
雑誌の宣伝もなくなり、
煙草の価格はどんどんと上がり続けてきた。
最初に吸ったのは、「DEATH」という煙草を発見したときだった。
会社はやめて、自分一人で仕事をし、法人化をし、特に営業もせず仕事が続いていた。
世間の喫煙者への風当たりは相当に強くなっていた。
喫煙するなんて信じられない。
副流煙で私の健康まで奪っているのよ。
まるで、喫煙者なんて死んでしまえばいいんだ。と言わんばかりだ。
もちろん、喫煙者が死んで良いなんて、暴言だと思う。
だけど、暴言だというと石が飛んできそうな勢いだ。
なんだか、やな時代だなと、感じ始めていた。
そんな時代に「DEATH」という煙草に出会った。
真っ黒なパッケージ。
白いドクロマークに「DEATH」の文字。
「健康のため吸い過ぎに注意しましょう」の時代に堂々と「死」という名前。
この時代に、この反骨精神。たまらない。
ひさしぶりに「大人」を感じた。
誰がどういおうと、やりたい事はやる。そんな意思とひねくれた精神が魂を打ち抜いた。
それが一本目。
残念ながら、「DEATH」は、そのネーミングにそぐわず、普通の煙草だった。
缶PEACEのようなキツイ味を期待していたのに、マイルドセブンのような普通の煙草。
ちぇっ、と思って、残りの煙草は吸わず、賞味期限が切れて、捨てた。
DEATHには、神は宿っていなかったようだ。
(七人の神さまごめんなさい。これはいいわけです〜)
葉巻に手を出したことがあった。
葉巻は15年ぐらい吸い続けないと様にならない。
所作がいろいろあるから、すべての動作がこなれるまで15年ぐらいかかる。
という話を聞いた。
35歳ぐらいで始めて、50ぐらいでかっこいいのか。と思った。
葉巻はふかすだけで肺には入れない。香りを楽しむだけ。
これこそが、「煙草を楽しむ」ではないのか。これはいい!と一式をそろえた。
葉巻用の灰皿。葉巻は放って置いたら消える。長い灰皿が要る。
葉巻カッター。吸い口を切るハサミのようなもの。
葉巻用マッチ。葉巻は火が付くのに時間がかかるから普通のマッチでは足りない。
趣味で吸うんだからライターではなく、マッチに挑戦したい。かっこよさそうだ。
葉巻ケース。大切な一本のために、湿気ないよう、香りが飛ばないようにケースが必要だ。
そして、少し高めの葉巻を一本買った。
うまいのかまずいのかよくわからない。
香りは確かに良い。
だが、部屋があまりに臭くなった。
その日は良いのだが、次の日、葉巻を吸った部屋に入ると、部屋中に匂いが染みついて、居られない。
これは、ダメだ。
葉巻部屋を確保しないと葉巻は吸えない。
わが家に葉巻部屋なんてない、だから、葉巻はヤメだ。
そのご、パッケージが楽しそうなのを見つけては、
気分の良い日曜日などに1本火をつけてみるが、
たいてい、美味くない。
煙草なんて、もともと、美味くないものなのかもしれない。
依存症というのは、「自分に何か欠けている」から依存する必要があるのかもしれない。
私には、少なくとも、ニコチンに依存する理由がないのかもしれない。
酒は好きだし、ゲームも好きだ。家族にも依存していると思う。
たくさんの依存はあるだろうけど、ニコチンは、あまり必要ないのかもしれない。
代償行為を欲するときに、「煙草」とは思わない。
たぶん、バイクでかっ飛ばすとかそっちの方面だと思う。
「煙草」は大人への憧れや、かっこよさへのあこがれでしかない。
この間、「SevenStars Cutting Menthol」という煙草を発見した。
超スリムな煙草なので、20本入りなのにパッケージが薄い。
ラッキーストライクを思わせるどでかい星が真ん中にひとつ。
なんだか、かっこいいので、吸った。
懐かしかった。
高校生の頃、セブンスターにメンソールの粒を突っ込んで、ライターで溶かし、「セブンスターメンソール」という当時発売されていない煙草を作って楽しんでいた頃を思い出した。
天王寺の路地裏を下った所にある「マントヒヒ」という汚いジャズ喫茶を思い出した。そこで読んだ「がんばれタブチ君」を思い出した。
無性に、この煙草が好きになった。
大人への憧れと言うが、大人って言うのは、若い頃への憧憬を持つ人の事なのかもしれない。
次の日、無性にこの煙草が、また、吸いたくなった。
体が欲しているのか、心が欲しているのか、
薬物が欲しているのか。
かなり危険なところに、自分自身を置いて、抑制を楽しんでいる。
抑制がはち切れるとき、バイクを走らせるのだろう。
一度、まとめておいてもいいかなとは思っていたので、かなり長くなりそうだけど、私が喫煙に関して思ったこと、やった事、いま考えていることをまとめておく。
たぶん、これまでの日記でも書いた事と重複することも多いと思う。ご容赦願いたい。
私のタバコ歴を概観すると、生まれてから18年吸わず、その後15年吸い、15年前から吸っていない。
一番吸っていたのは、日常的に吸わなくなる前の時期で、一日に1箱半だ。
その1年前までは、2日で1箱が標準だった。
人によるが、1日10本では、ヘビースモーカーとは言えないと思う。
いま考えると、たばこを吸っていたのは、好奇心でしかなかった。
大人が吸っていたから、大人みたいになりたい。というのが最初だ。
最初は小学校5年ぐらいにオヤジのタバコを盗み吸いしてみた。
吸った途端に「クラクラ〜」と来て、「あ、オヤジはタバコと称して麻薬を吸っている。」と思ったものだ。かわいい。
常習的に吸うのは高校生の時だ。
かっこつけたかったというおきまりのものだ。
タバコなんて、美味いと思ったことはなかった。
だから、ミントの粒をタバコに埋め込んで吸っていた。
そんな、「誰も知らない吸い方」を知っている事がカッコイイと思っていた。
だが、高校生は金がない。
常態的なバイトもしていなかった。
お小遣いの範囲で買えるタバコの量は、月に一箱って所だったと思う。
仕事をするようになって、ニコチンと付き合うようになる。
ニコチンとカフェインだ。
最初に働いた会社の師匠が、ドリップコーヒーと「ジョーカー」を欠かさない人だった。
演出家という職業を効果的に見せるためだろう、あまり売られていない「ジョーカー」一辺倒だった。
スリムで長く、茶色いタバコ、名前が「ジョーカー」。
古式ゆかしき「演出家」を自ら演出していたのだろう。タバコとはそういう役割があった。
私は、「SomeTime Lite」だった。軽やかな三角形の背景にSomeTimeという若々しさが好きだった。
バブルがもうすぐ来る時代を象徴している。
結婚し、夢より金になり、舞台より企業イベントの会社へ移る。
やりたい事がやらねばな事になる。
社長の一言で平面の仕事どころか職種まで変わる。
カフェインとニコチンがないと仕事が出来なくなる。
その頃、アメリカで喫煙者は出世できないという情報が入ってくる。
インターネットが世間を変革するなんて情報が入ってきても、世間では「???」と反応すら出来ない頃だ。
まだまだ仕事はワープロだったんだから仕方がない。
パソコンに電話線を繋いでいたのは、会社の中のみならず、仕事仲間であと一人いただけの時代だ。
いまでも仕事で付き合っている人がタバコ嫌いだった。
すべての人に「タバコをやめろ」と言っていた。
それは、「自分が迷惑だから」でしかなかった。
だから、その人の言葉に従うのはいやだった。
だが、アメリカの圧力からか厚生省の考え方か、その頃からタバコのパッケージに小さく、注意書きが入るようになった。
世論は、なんとなく、禁煙へと向かい始めていた。
もちろん、そんな後押しはあった。
世間の雰囲気は、自分の意思に影響を与える。
それは間違いないし、それがイヤだとも思わない。
やめるのなら、止めた方が便利そうだな。という思いもでてきていた。
「大人への憧れ」とか、「カッコイイ」とかが理由なら、「面倒だな」でやめるのは、ありだ。
だけど、私が日常的にたばこを吸わなくなったのは、少し違う思いがあった。
あれは、仕事できる人間達が大量に辞めてへとへとになっていたときのことだ。
会社には数代のパソコンが導入されていた。
パソコンの前に、コーヒーと灰皿とタバコとライターを置く。
手はブラインドなので、モニターだけをひたすら見つめる。
モニターだけを見て、タバコを咥え、珈琲をすする。
珈琲の渋みと煙草のヤニが口の中を支配して気分が悪くなる。
くわえた煙草を灰皿に押しつける。
押しつけるために、ふと、灰皿を見る。
すべての煙草が長い。
先の1cmぐらい吸って、すべて消している。
私は、何をしているんだろう。
一粒の米にも七人の神さまがいる。神は本当には居ないが私たちの口に届くまでに七人以上の人々が大事に大事にお米を育てているんだから、一粒を大事にしなさい。と爺さんが言っていて、その言葉は、大事だなと思って暮らしてきた。
米に七人の神さまが居るなら、煙草にも5人や6人はいるだろう。
私は、この煙草に何をしているのだろう。
煙草がかわいそうだ。
そして、煙草をこんな目に合わさなきゃ出来ない仕事って、本当に正しいのだろうか?
すくなくとも、こんな進め方でするのは、正しくない。
それ以来、仕事のやり方を変えた。
出来ないものは出来ないと言うようにした。
そして、「本当にうまい煙草しか吸わない」と決めた。
ニコチンが切れて、次のニコチンを摂取したいから吸う煙草とか、食後に広がる血管を無理矢理収縮させて気持ちよるなるための薬物としての煙草とか、ダウナー系の薬物アルコールにより、ダウンさせた神経をアッパー系の薬物ニコチンで闘わせて、より危険な状態にさせて楽しむ喫煙とか、そんな煙草は吸わない。
「煙草」が「煙草」として純粋に楽しめる状況でなければ吸わないと決めた。
いざ、決めてみると、本当に煙草を吸いたい状況はほとんどなかった。
以来、15年間、吸った煙草は、多分、5本程度だろう。
しかも、最初の10年間は、たぶん、一本も吸ってない。
その10年は、禁煙ブームへの10年間だった。
煙草のパッケージに書かれる文章は徐々に大きくなり、
テレビCMがなくなり、
雑誌の宣伝もなくなり、
煙草の価格はどんどんと上がり続けてきた。
最初に吸ったのは、「DEATH」という煙草を発見したときだった。
会社はやめて、自分一人で仕事をし、法人化をし、特に営業もせず仕事が続いていた。
世間の喫煙者への風当たりは相当に強くなっていた。
喫煙するなんて信じられない。
副流煙で私の健康まで奪っているのよ。
まるで、喫煙者なんて死んでしまえばいいんだ。と言わんばかりだ。
もちろん、喫煙者が死んで良いなんて、暴言だと思う。
だけど、暴言だというと石が飛んできそうな勢いだ。
なんだか、やな時代だなと、感じ始めていた。
そんな時代に「DEATH」という煙草に出会った。
真っ黒なパッケージ。
白いドクロマークに「DEATH」の文字。
「健康のため吸い過ぎに注意しましょう」の時代に堂々と「死」という名前。
この時代に、この反骨精神。たまらない。
ひさしぶりに「大人」を感じた。
誰がどういおうと、やりたい事はやる。そんな意思とひねくれた精神が魂を打ち抜いた。
それが一本目。
残念ながら、「DEATH」は、そのネーミングにそぐわず、普通の煙草だった。
缶PEACEのようなキツイ味を期待していたのに、マイルドセブンのような普通の煙草。
ちぇっ、と思って、残りの煙草は吸わず、賞味期限が切れて、捨てた。
DEATHには、神は宿っていなかったようだ。
(七人の神さまごめんなさい。これはいいわけです〜)
葉巻に手を出したことがあった。
葉巻は15年ぐらい吸い続けないと様にならない。
所作がいろいろあるから、すべての動作がこなれるまで15年ぐらいかかる。
という話を聞いた。
35歳ぐらいで始めて、50ぐらいでかっこいいのか。と思った。
葉巻はふかすだけで肺には入れない。香りを楽しむだけ。
これこそが、「煙草を楽しむ」ではないのか。これはいい!と一式をそろえた。
葉巻用の灰皿。葉巻は放って置いたら消える。長い灰皿が要る。
葉巻カッター。吸い口を切るハサミのようなもの。
葉巻用マッチ。葉巻は火が付くのに時間がかかるから普通のマッチでは足りない。
趣味で吸うんだからライターではなく、マッチに挑戦したい。かっこよさそうだ。
葉巻ケース。大切な一本のために、湿気ないよう、香りが飛ばないようにケースが必要だ。
そして、少し高めの葉巻を一本買った。
うまいのかまずいのかよくわからない。
香りは確かに良い。
だが、部屋があまりに臭くなった。
その日は良いのだが、次の日、葉巻を吸った部屋に入ると、部屋中に匂いが染みついて、居られない。
これは、ダメだ。
葉巻部屋を確保しないと葉巻は吸えない。
わが家に葉巻部屋なんてない、だから、葉巻はヤメだ。
そのご、パッケージが楽しそうなのを見つけては、
気分の良い日曜日などに1本火をつけてみるが、
たいてい、美味くない。
煙草なんて、もともと、美味くないものなのかもしれない。
依存症というのは、「自分に何か欠けている」から依存する必要があるのかもしれない。
私には、少なくとも、ニコチンに依存する理由がないのかもしれない。
酒は好きだし、ゲームも好きだ。家族にも依存していると思う。
たくさんの依存はあるだろうけど、ニコチンは、あまり必要ないのかもしれない。
代償行為を欲するときに、「煙草」とは思わない。
たぶん、バイクでかっ飛ばすとかそっちの方面だと思う。
「煙草」は大人への憧れや、かっこよさへのあこがれでしかない。
この間、「SevenStars Cutting Menthol」という煙草を発見した。
超スリムな煙草なので、20本入りなのにパッケージが薄い。
ラッキーストライクを思わせるどでかい星が真ん中にひとつ。
なんだか、かっこいいので、吸った。
懐かしかった。
高校生の頃、セブンスターにメンソールの粒を突っ込んで、ライターで溶かし、「セブンスターメンソール」という当時発売されていない煙草を作って楽しんでいた頃を思い出した。
天王寺の路地裏を下った所にある「マントヒヒ」という汚いジャズ喫茶を思い出した。そこで読んだ「がんばれタブチ君」を思い出した。
無性に、この煙草が好きになった。
大人への憧れと言うが、大人って言うのは、若い頃への憧憬を持つ人の事なのかもしれない。
次の日、無性にこの煙草が、また、吸いたくなった。
体が欲しているのか、心が欲しているのか、
薬物が欲しているのか。
かなり危険なところに、自分自身を置いて、抑制を楽しんでいる。
抑制がはち切れるとき、バイクを走らせるのだろう。
ノーカントリー [DVD]
2011年11月6日 映画
理由なき暴力。
コーエン兄弟は、わからんと言っていたが、アカデミー賞とる映画はやっぱ良い。
と思ってたが原作付き。作者は「ザ・ロード」のコーマック・マッカーシー。
なんだか俺の人生にまとわりついてくるコーマック・マッカーシー。
とはいえコーエン兄弟の映像作りは素晴らしい。
ファーストシーンからラストまで続く緊張感。
コーエン兄弟らしい、次がどうなるかわからない意外性の展開。
放り投げるように突きつけられるラスト。
所詮、いつ死ぬかわからない暴力。
抗えない人という存在。
スプートニクの恋人で村上春樹がテーマにした理由なき圧倒的暴力。
差別と偏見を恐れずに言うと、戦争という圧倒的暴力にさらされた世代。という人々が確かに存在する。
この映画ではベトナムだが日本にも、存在した。
1945に20~30歳だった人々。
戦中派といわれる世代。
圧倒的暴力に青春を蹂躙され、行動規範の根底に暴力があり、暴力を再生産し続ける世代。
もちろん、世代でくくるのはあまりに危険だが、確かに存在した。
その世代が、私の世代には、先生だったのではないか。
そんな事を考えた。
コーエン兄弟は、わからんと言っていたが、アカデミー賞とる映画はやっぱ良い。
と思ってたが原作付き。作者は「ザ・ロード」のコーマック・マッカーシー。
なんだか俺の人生にまとわりついてくるコーマック・マッカーシー。
とはいえコーエン兄弟の映像作りは素晴らしい。
ファーストシーンからラストまで続く緊張感。
コーエン兄弟らしい、次がどうなるかわからない意外性の展開。
放り投げるように突きつけられるラスト。
所詮、いつ死ぬかわからない暴力。
抗えない人という存在。
スプートニクの恋人で村上春樹がテーマにした理由なき圧倒的暴力。
差別と偏見を恐れずに言うと、戦争という圧倒的暴力にさらされた世代。という人々が確かに存在する。
この映画ではベトナムだが日本にも、存在した。
1945に20~30歳だった人々。
戦中派といわれる世代。
圧倒的暴力に青春を蹂躙され、行動規範の根底に暴力があり、暴力を再生産し続ける世代。
もちろん、世代でくくるのはあまりに危険だが、確かに存在した。
その世代が、私の世代には、先生だったのではないか。
そんな事を考えた。
蜘蛛巣城<普及版> [DVD]
2011年11月5日 映画
確かに大作だとは思うけど…。
あそこまで大掛かりなセットは本当に必要だったの?
ま、クロサワというのは、本当にビッグネームだったんだなぁとは思ったし、感心した。
こんな大作作れる人間は、もう、出てこないだろう。
能、雅楽というのに、ちょっと興味が出た。
暴力のカタストロフィを芸術に昇華していると感じる。
あそこまで大掛かりなセットは本当に必要だったの?
ま、クロサワというのは、本当にビッグネームだったんだなぁとは思ったし、感心した。
こんな大作作れる人間は、もう、出てこないだろう。
能、雅楽というのに、ちょっと興味が出た。
暴力のカタストロフィを芸術に昇華していると感じる。
ストレステストは、欧米で、「福島とは条件が違うから、うちの原発は安全」と言うために作ったテスト。
地震大国日本でやっちまって、「安全」なんて結果が出たら、欧米は困るだろう。
嘘がばれちまう。
地震大国日本でやっちまって、「安全」なんて結果が出たら、欧米は困るだろう。
嘘がばれちまう。
エンジェル ウォーズ
2011年11月4日 映画
なんじゃこりゃ。
色々イメージは次々繰り出されるけど、ストーリーがない。
いや、ストーリーはあるけど、ペランペラン。
最初のファンタジーが始まったら構成がラストまですべて見える。
なにか裏切られることがあるかと最後まで見たら、そのまま終わった。
音楽は暴れてていい。
ビヨークはほんと耳につく。
色々イメージは次々繰り出されるけど、ストーリーがない。
いや、ストーリーはあるけど、ペランペラン。
最初のファンタジーが始まったら構成がラストまですべて見える。
なにか裏切られることがあるかと最後まで見たら、そのまま終わった。
音楽は暴れてていい。
ビヨークはほんと耳につく。
鬼平犯科帳 第2シリーズ《第13・14話》
2011年11月4日 日常たまたま、NHK「試してガッテン」を見た。
禁煙の回だった。
今は、良い薬があって、薬を飲んでいれば、自然にタバコが不味くなり、苦労せずにタバコをやめられるそうだ。
詳しい脳内物質の作用を紹介していた。
しかし、その後があった。
喫煙再開率が高いのだそうだ。
喫煙再開の理由は、「幸せの完成」。
脳内麻薬にやられた頭は、「幸せ」と「脳内麻薬」を結びつけてしまっており、「脳内麻薬」が出ないと「幸せが完成」しないのだそうだ。
自分でも不思議なのだそうだ。
素敵な夕陽を見て、「キレイだなぁ」と幸せに感じた時、「脳内麻薬」が追加されないと「幸せに一歩足りない」と感じるそうだ。
訳がわからないまま、タバコをふかす。すると、幸せが完成するのだと。
これは、薬で強化されたパブロフの犬なわけですよね。恐ろしい。
こういうことは、知っておくと知らないでは、全然違うよね。
「幸せに一歩足りない」と感じた時、あ、例の「幸せの完成」か。と分かっているだけで、何もかも台無しにせずに済む。
同じことはどんな依存でも起こるんだろう。
「タバコをふかしたい」だったり、
「酒を飲みたい」だったり、
「ギャンブルがしたい」だったり、
「何もかも壊したい」だったりする。
幸せの瞬間に、そんな「幸せと本来関係ないこと」を欲したとしても、
こんな脳の作用を知ってるだけで自分を笑い飛ばせるようになれると思う。
「おれも、まだまだだな。」と。
ヘェ〜、と感心して、2年ぶりのタバコに火をつけた。
禁煙の回だった。
今は、良い薬があって、薬を飲んでいれば、自然にタバコが不味くなり、苦労せずにタバコをやめられるそうだ。
詳しい脳内物質の作用を紹介していた。
しかし、その後があった。
喫煙再開率が高いのだそうだ。
喫煙再開の理由は、「幸せの完成」。
脳内麻薬にやられた頭は、「幸せ」と「脳内麻薬」を結びつけてしまっており、「脳内麻薬」が出ないと「幸せが完成」しないのだそうだ。
自分でも不思議なのだそうだ。
素敵な夕陽を見て、「キレイだなぁ」と幸せに感じた時、「脳内麻薬」が追加されないと「幸せに一歩足りない」と感じるそうだ。
訳がわからないまま、タバコをふかす。すると、幸せが完成するのだと。
これは、薬で強化されたパブロフの犬なわけですよね。恐ろしい。
こういうことは、知っておくと知らないでは、全然違うよね。
「幸せに一歩足りない」と感じた時、あ、例の「幸せの完成」か。と分かっているだけで、何もかも台無しにせずに済む。
同じことはどんな依存でも起こるんだろう。
「タバコをふかしたい」だったり、
「酒を飲みたい」だったり、
「ギャンブルがしたい」だったり、
「何もかも壊したい」だったりする。
幸せの瞬間に、そんな「幸せと本来関係ないこと」を欲したとしても、
こんな脳の作用を知ってるだけで自分を笑い飛ばせるようになれると思う。
「おれも、まだまだだな。」と。
ヘェ〜、と感心して、2年ぶりのタバコに火をつけた。
魔法少女まどか☆マギカ 6 [DVD]
2011年11月2日 映画
うん、名作だ。
準さん、教えてくれてありがとう。
放映は今年1~4月。
震災のせいでこの巻の分は遅れて放映されたそうだ。
避難所のシーンは、挿入か、偶然か。魔女の仕業か。
あ~、久しぶりに堪能したアニメだった。
準さん、教えてくれてありがとう。
放映は今年1~4月。
震災のせいでこの巻の分は遅れて放映されたそうだ。
避難所のシーンは、挿入か、偶然か。魔女の仕業か。
あ~、久しぶりに堪能したアニメだった。
一年ぶり2回目のゴルフレッスン。
身体は覚えているものだねぇ。
一度覚えたものは忘れない。
こういう時は便利なものだ。
依存症も一度覚えたら忘れない。
こっちは困ったものだ。
身体なんて単純だ。一度覚えると忘れない。
覚えたものは仕方ない。
誰を非難しても治らない。
依存症との付き合い方を訓練するしかない。
元に戻すことは、不可能だと覚悟するしかない。
呑み込まれない方策を編み出すしかない。
自分は治ったなんて、信じちゃ負けだ。
身体は覚えているものだねぇ。
一度覚えたものは忘れない。
こういう時は便利なものだ。
依存症も一度覚えたら忘れない。
こっちは困ったものだ。
身体なんて単純だ。一度覚えると忘れない。
覚えたものは仕方ない。
誰を非難しても治らない。
依存症との付き合い方を訓練するしかない。
元に戻すことは、不可能だと覚悟するしかない。
呑み込まれない方策を編み出すしかない。
自分は治ったなんて、信じちゃ負けだ。
魔法少女まどか☆マギカ 5 [DVD]
2011年11月1日 映画得意先と行く人がキャンセルだそうで、突然試写会。御堂会館。
「カイジ1」は見てないので、ちっ、とは思ったが、1のあたりは、何となくアニメや漫画で目にしてるし、1を見てないと分からないような仕組みは、3箇所あればいい方だろう。と想像してたら、案の定その通り。
●「2」だけで満足度はクリアする。
●「1」の売上アップの施策も施す。
結論として、関連は3箇所程度。
ま、マーケティング通り。
しかし、儲ける仕組みはそんなもんじゃ止まらなかった。
会場で、漫画冊子が配られた。
本編の導入部15分ぐらいの原作部分。
漫画の売り上げアップも期待されているようだ。ご苦労様。
これ、劇場でも配るのかな?
本編は、ま、ツッコミどころ満載の楽しい映画。
見た人全員が帰りに突っ込んで盛り上がれます。
そして、「所詮、マンガ」と差別意識満載になれます。
ギャンブルでアドレナリンドクドクの人には楽しいのかもしれませんが、一般人には、アリエネーなお話です。
原作では、丁寧に書かれている設定も映画で端折ってしまうと、薄っぺらさが露呈、いくらでも突っ込めます。
藤原竜也はしっかりとした演技ですが、伊勢谷くんは「これはギャグキャラ」と割り切って悪役やってるんでしょうね。
それにしても、パチンコ台が相手じゃ心理戦もへったくれもありませんね。
ほんと、みんなで笑って突っ込めますので、オススメです。
しかし、2時間13分はちょっと長すぎ。
15分ぐらい切れるでしょ、2時間以内にして欲しかったなぁ。
「カイジ1」は見てないので、ちっ、とは思ったが、1のあたりは、何となくアニメや漫画で目にしてるし、1を見てないと分からないような仕組みは、3箇所あればいい方だろう。と想像してたら、案の定その通り。
●「2」だけで満足度はクリアする。
●「1」の売上アップの施策も施す。
結論として、関連は3箇所程度。
ま、マーケティング通り。
しかし、儲ける仕組みはそんなもんじゃ止まらなかった。
会場で、漫画冊子が配られた。
本編の導入部15分ぐらいの原作部分。
漫画の売り上げアップも期待されているようだ。ご苦労様。
これ、劇場でも配るのかな?
本編は、ま、ツッコミどころ満載の楽しい映画。
見た人全員が帰りに突っ込んで盛り上がれます。
そして、「所詮、マンガ」と差別意識満載になれます。
ギャンブルでアドレナリンドクドクの人には楽しいのかもしれませんが、一般人には、アリエネーなお話です。
原作では、丁寧に書かれている設定も映画で端折ってしまうと、薄っぺらさが露呈、いくらでも突っ込めます。
藤原竜也はしっかりとした演技ですが、伊勢谷くんは「これはギャグキャラ」と割り切って悪役やってるんでしょうね。
それにしても、パチンコ台が相手じゃ心理戦もへったくれもありませんね。
ほんと、みんなで笑って突っ込めますので、オススメです。
しかし、2時間13分はちょっと長すぎ。
15分ぐらい切れるでしょ、2時間以内にして欲しかったなぁ。
風呂で体を洗う時になにで洗いますか?
子供の頃は、タオルでした。
たまに銭湯に行くと、「パーン」と大きな音がして、振り向くと日本手拭いを畳んでいる爺さんなんかがいました。
小学校高学年ぐらいでしょうか。祖父さんか親父かがアカスリタオルという韓国で流行の身体洗い専用のタオルを買ってきました。真っ赤なナイロンタオルでした。
子供の皮膚にはとても痛く、使わなかったけど、パイル地のタオルより絞りやすいな。と、思いました。子供の手には、パイル地のタオルは畳むと太過ぎて、絞れないのです。
やがて、さまざまなゴシゴシタオルの登場です。
高校の頃、ファッション誌「ポパイ」の雑貨特集なんかをみて、体洗いブラシなんかを買ったこともありますね。
さて、年をとり、スポーツジムに通うようになると、荷物は最小限にしたくなります。ボーイスカウトの悲しい性です。荷物は少ない方が片付けが速い。素早く次の行動ができる。
タオルの本数は少ない方が良い。
プールにはいるのだから、バスタオルは必須。
風呂に持ち込むのは、何か?
普通のパイル地のタオルですよね。
ところが、
時間がきたので、続きはウェブで…。
(24時間が経過、続きはもちろんここ以外に、どこにもありません)
ところが、ゴシゴシタオルに慣れた身体には、パイル地だとこすった気がしない。
洗えてない気がします。
石鹸をつけると、体の上をにゅるりーんと滑って行くだけで、垢が落ちてる気がしない。
慣れとは恐ろしいものです。
かと言って、ゴシゴシタオルまで持ち込むと面倒なことになります。
湯船に2本持ち込めない。2本とも湯船に落ちないように管理なんてできません。頭の上に2本乗せてるとか想像するだけで笑ってしまいます。
とすると、どこかに置かなきゃならない。
プラカゴ?
そういえば皆さんプラカゴにシャンプーリンスとゴシゴシタオル入れて持ち込んでますねぇー。
いやいや、私はシャンプーリンスにこだわりはないので、ジム備え付けので構いません。
あんなカゴ、洗ったり乾かしたり詰めたり出したり面倒です。濡れ物はすぐにカビたりするので無いに越したことはありません。キチンと管理出来ないなら使わない。ましてや、ゴシゴシタオル1本のためにカゴなんて、ね。
かと言って、風呂場の床にゴシゴシタオル1本置いておくなんて、絵的に変です。
「落し物ですよ~」と声かけてしまいます。
パイル地をやめて、ゴシゴシタオル1本だけ、というのも考えましたが、それもなんか、変です。
前を隠すにしては、透け透けで、みょーにセクシー。隠してるのか、見せつけてるのかわからなくなります。
隠さなくても、別に恥ずかしくもないですが、見せつけるほどの持ち物でもございません。
ただ単に、先に湯船に入っている人の、目の高さでブラブラさせたりすると、相手が困るかな、と。「ブラブラしてるな、目を逸らすか、そらすのも失礼か、いや、見つめるのはもっとダメだろう。」などと要らぬ頭を使わせるのもなんだなと、その程度の気遣いでしかないんです。
それなのに、シースルーでセクシーに隠されては、「あたし、誘ってるわよ」「むほっ!やらないか」とか、もう、予想外方面の間違い気遣いが派生して、あー、根本的に無理!「私は、女好きなのよー」などとか叫んでしまいますわよー。ぜいぜい。
閑話休題
ほかにも、ゴシゴシタオルの欠点は、畳んで置いておくにしても、頭に乗せるにしても、折り目がつかず、ビヨーンと広がる。
更衣室に出る前に、体についた水滴をざっと落とす時にも、そもそも水なんて吸わないんだから、役に立たない。
とにかく、彼は主役になれない存在です。
なんか、ないかなー。
と、思い出したのが、「パーン」という音。日本手拭い。
試してみようと、カミさんに聞いたら、準さんが高校の時、剣道の授業で使ってた日本手拭いがあるという。
使ってみると、これがいい。
畳み方で、布の端が肌に当たるようにするとゴシゴシタオル並の硬さで当たるし、端が出ないように折ると、柔らかい肌触りになる。
身体の水滴落とすぐらいには、水も吸う。
子供の手でも絞れる太さ。
絞って、パーンってやって、ちょっと吊っとけば、すぐに乾く。
持ち帰りの時に、タオルみたいにベチャベチャしない、重く無い。
まさに、日本の風呂文化のために作られた道具なんですねぇ。
パイル地タオルは頭の上に乗せると、ちょっと厚い。落ちそうだ。
頭の上には、日本手拭いが一番丁度いい。
満足満足、良い解決策を見つけた。と、思っていたけど、
ずっと使ってると、準さんの手拭いは、ミョーにカッコいい。
ハーフトーンのくすんだブルーに、濃いブルーのドラゴン柄が全面スタンプ。
「日本手拭いに見えない日本手拭い」をコンセプトに選んだしろもの。
銭湯では、これが気になる。
桶で洗ってると、まるで洗濯物を洗っているように見える。
ボクサーパンツをジャブジャブ。タオルに見えない。(確かにタオルじゃない)
日本手拭いという一般的じゃないものを公共の場で使う時には、誰もが認知できるものを使うのが親切ってものだ。もっと和柄なものが、いい。
ま、ほとんど私の気にし過ぎだ。ということはわかっているけど、日本手拭いが気に入ったのに、借り物だってところが気に食わないのかもしれない。
でも、豆絞りとかまで行くと、それはそれでやり過ぎ感がある。
宇治に遊びに行った時、いい手拭い屋があったなぁ。とか思い出すけど、わざわざ行くほどじゃ無い。
普段の立ち回り先に手拭いは少ない。豆絞りみたいなのばっかりだ。
ま、良いのにそのうち出会えりゃ幸せ、とのんびりかまえていた。
と、
ここまでが、長い長いネタフリ。
こないだの結婚式の事。帰りにいただいた引き出物。
なんだかしょぼい布の手提げに入っている。
地産地消がテーマのようだし、この手提げには、なにか地雷が埋め込まれているな。下手に踏んだら、爆発するぞ。と、帰ってから確かめると、なんと日本手拭い。
手拭いを、くいっ、くいくいっと斜めに折り曲げて、2箇所ざっくりミシンをかけただけなので、それをほどけば、元の手拭い出現。
しかも、いくつかあった柄の中から、私に当たったのは落語家の家紋柄。
縦にズバッと臙脂と白に塗り分けられ、家紋が散らばめられた、純日本風。
こりゃ、うれしい。
あ、これ、枝雀寄席の背景にあった紋。などと楽しみながら、ジムの湯船で頭に乗っけてニンマリいたしております。
子供の頃は、タオルでした。
たまに銭湯に行くと、「パーン」と大きな音がして、振り向くと日本手拭いを畳んでいる爺さんなんかがいました。
小学校高学年ぐらいでしょうか。祖父さんか親父かがアカスリタオルという韓国で流行の身体洗い専用のタオルを買ってきました。真っ赤なナイロンタオルでした。
子供の皮膚にはとても痛く、使わなかったけど、パイル地のタオルより絞りやすいな。と、思いました。子供の手には、パイル地のタオルは畳むと太過ぎて、絞れないのです。
やがて、さまざまなゴシゴシタオルの登場です。
高校の頃、ファッション誌「ポパイ」の雑貨特集なんかをみて、体洗いブラシなんかを買ったこともありますね。
さて、年をとり、スポーツジムに通うようになると、荷物は最小限にしたくなります。ボーイスカウトの悲しい性です。荷物は少ない方が片付けが速い。素早く次の行動ができる。
タオルの本数は少ない方が良い。
プールにはいるのだから、バスタオルは必須。
風呂に持ち込むのは、何か?
普通のパイル地のタオルですよね。
ところが、
時間がきたので、続きはウェブで…。
(24時間が経過、続きはもちろんここ以外に、どこにもありません)
ところが、ゴシゴシタオルに慣れた身体には、パイル地だとこすった気がしない。
洗えてない気がします。
石鹸をつけると、体の上をにゅるりーんと滑って行くだけで、垢が落ちてる気がしない。
慣れとは恐ろしいものです。
かと言って、ゴシゴシタオルまで持ち込むと面倒なことになります。
湯船に2本持ち込めない。2本とも湯船に落ちないように管理なんてできません。頭の上に2本乗せてるとか想像するだけで笑ってしまいます。
とすると、どこかに置かなきゃならない。
プラカゴ?
そういえば皆さんプラカゴにシャンプーリンスとゴシゴシタオル入れて持ち込んでますねぇー。
いやいや、私はシャンプーリンスにこだわりはないので、ジム備え付けので構いません。
あんなカゴ、洗ったり乾かしたり詰めたり出したり面倒です。濡れ物はすぐにカビたりするので無いに越したことはありません。キチンと管理出来ないなら使わない。ましてや、ゴシゴシタオル1本のためにカゴなんて、ね。
かと言って、風呂場の床にゴシゴシタオル1本置いておくなんて、絵的に変です。
「落し物ですよ~」と声かけてしまいます。
パイル地をやめて、ゴシゴシタオル1本だけ、というのも考えましたが、それもなんか、変です。
前を隠すにしては、透け透けで、みょーにセクシー。隠してるのか、見せつけてるのかわからなくなります。
隠さなくても、別に恥ずかしくもないですが、見せつけるほどの持ち物でもございません。
ただ単に、先に湯船に入っている人の、目の高さでブラブラさせたりすると、相手が困るかな、と。「ブラブラしてるな、目を逸らすか、そらすのも失礼か、いや、見つめるのはもっとダメだろう。」などと要らぬ頭を使わせるのもなんだなと、その程度の気遣いでしかないんです。
それなのに、シースルーでセクシーに隠されては、「あたし、誘ってるわよ」「むほっ!やらないか」とか、もう、予想外方面の間違い気遣いが派生して、あー、根本的に無理!「私は、女好きなのよー」などとか叫んでしまいますわよー。ぜいぜい。
閑話休題
ほかにも、ゴシゴシタオルの欠点は、畳んで置いておくにしても、頭に乗せるにしても、折り目がつかず、ビヨーンと広がる。
更衣室に出る前に、体についた水滴をざっと落とす時にも、そもそも水なんて吸わないんだから、役に立たない。
とにかく、彼は主役になれない存在です。
なんか、ないかなー。
と、思い出したのが、「パーン」という音。日本手拭い。
試してみようと、カミさんに聞いたら、準さんが高校の時、剣道の授業で使ってた日本手拭いがあるという。
使ってみると、これがいい。
畳み方で、布の端が肌に当たるようにするとゴシゴシタオル並の硬さで当たるし、端が出ないように折ると、柔らかい肌触りになる。
身体の水滴落とすぐらいには、水も吸う。
子供の手でも絞れる太さ。
絞って、パーンってやって、ちょっと吊っとけば、すぐに乾く。
持ち帰りの時に、タオルみたいにベチャベチャしない、重く無い。
まさに、日本の風呂文化のために作られた道具なんですねぇ。
パイル地タオルは頭の上に乗せると、ちょっと厚い。落ちそうだ。
頭の上には、日本手拭いが一番丁度いい。
満足満足、良い解決策を見つけた。と、思っていたけど、
ずっと使ってると、準さんの手拭いは、ミョーにカッコいい。
ハーフトーンのくすんだブルーに、濃いブルーのドラゴン柄が全面スタンプ。
「日本手拭いに見えない日本手拭い」をコンセプトに選んだしろもの。
銭湯では、これが気になる。
桶で洗ってると、まるで洗濯物を洗っているように見える。
ボクサーパンツをジャブジャブ。タオルに見えない。(確かにタオルじゃない)
日本手拭いという一般的じゃないものを公共の場で使う時には、誰もが認知できるものを使うのが親切ってものだ。もっと和柄なものが、いい。
ま、ほとんど私の気にし過ぎだ。ということはわかっているけど、日本手拭いが気に入ったのに、借り物だってところが気に食わないのかもしれない。
でも、豆絞りとかまで行くと、それはそれでやり過ぎ感がある。
宇治に遊びに行った時、いい手拭い屋があったなぁ。とか思い出すけど、わざわざ行くほどじゃ無い。
普段の立ち回り先に手拭いは少ない。豆絞りみたいなのばっかりだ。
ま、良いのにそのうち出会えりゃ幸せ、とのんびりかまえていた。
と、
ここまでが、長い長いネタフリ。
こないだの結婚式の事。帰りにいただいた引き出物。
なんだかしょぼい布の手提げに入っている。
地産地消がテーマのようだし、この手提げには、なにか地雷が埋め込まれているな。下手に踏んだら、爆発するぞ。と、帰ってから確かめると、なんと日本手拭い。
手拭いを、くいっ、くいくいっと斜めに折り曲げて、2箇所ざっくりミシンをかけただけなので、それをほどけば、元の手拭い出現。
しかも、いくつかあった柄の中から、私に当たったのは落語家の家紋柄。
縦にズバッと臙脂と白に塗り分けられ、家紋が散らばめられた、純日本風。
こりゃ、うれしい。
あ、これ、枝雀寄席の背景にあった紋。などと楽しみながら、ジムの湯船で頭に乗っけてニンマリいたしております。
たまーに、非通知ワン切りの電話がかかってくる。
今日も昼間にプルルと一回鳴って切れた。
ワン切りは、リダイヤルすると国際電話に繋がり、法外な請求書が来るという悪徳商法であるが、非通知が解せぬ。
非通知だとリダイヤル出来ない。いわゆるワン切り詐欺では無いようだ。
仕事用の電話番号にかかっている。
この番号は名刺に刷り込んでいるので、どこに漏れていてもおかしくしない。
しかし、個人の番号ではないので、昔の女が恨んでいるわよと鳴らしているわけでもない。
まったく意味がわからない。
もう、3回目ぐらいになるので、なにか裏があるのだろうと調べてみる。
多分、回線が生きているかどうかのチェックだろうという意見があった。
回線が死んでいれば、「現在使われておりません…」が流れる。
プルルと鳴れば、生きている。
名簿業者がソフトを組んで、定期的に全リストに電話をかける。
死んでいる電話番号をリストから外す。
売買用の名簿のメンテナンス作業だ。
そういえば、今日は月末。
電話を解約するなら月末が得だ。
月末は名簿リストの日とプログラムに書き込まれているのだろう。
はぁ、手作業ならやらなかった仕事も、プログラムなら、費用も労力もかけずに実行できる。NTTの交換機に負担がかかるだけだ。
何だか、大変な時代だなぁ。
ということは、
数ヶ月電話を解約しておけば、名簿業者のリストから消せるって事か。
引越しとかで、電話番号が変わることがあれば、数ヶ月前から契約しておくとクリーンな番号が手に入るかもしれない。
ま、無駄かな。
今日も昼間にプルルと一回鳴って切れた。
ワン切りは、リダイヤルすると国際電話に繋がり、法外な請求書が来るという悪徳商法であるが、非通知が解せぬ。
非通知だとリダイヤル出来ない。いわゆるワン切り詐欺では無いようだ。
仕事用の電話番号にかかっている。
この番号は名刺に刷り込んでいるので、どこに漏れていてもおかしくしない。
しかし、個人の番号ではないので、昔の女が恨んでいるわよと鳴らしているわけでもない。
まったく意味がわからない。
もう、3回目ぐらいになるので、なにか裏があるのだろうと調べてみる。
多分、回線が生きているかどうかのチェックだろうという意見があった。
回線が死んでいれば、「現在使われておりません…」が流れる。
プルルと鳴れば、生きている。
名簿業者がソフトを組んで、定期的に全リストに電話をかける。
死んでいる電話番号をリストから外す。
売買用の名簿のメンテナンス作業だ。
そういえば、今日は月末。
電話を解約するなら月末が得だ。
月末は名簿リストの日とプログラムに書き込まれているのだろう。
はぁ、手作業ならやらなかった仕事も、プログラムなら、費用も労力もかけずに実行できる。NTTの交換機に負担がかかるだけだ。
何だか、大変な時代だなぁ。
ということは、
数ヶ月電話を解約しておけば、名簿業者のリストから消せるって事か。
引越しとかで、電話番号が変わることがあれば、数ヶ月前から契約しておくとクリーンな番号が手に入るかもしれない。
ま、無駄かな。