ううむ
毎日飲んでいるLG21が手に入らない。
同じ明治のR-1がインフルエンザに効くという話題がテレビで出たせいで、ただの乳酸菌飲料LG21まで品薄だ。
甘さ控えめなんて壊滅だ。

別に飲みたくもないのだが、飲まされているうちに習慣になった。
きっと私の屁がくさかったので飲まされたのだろう。

しかし、習慣になったものがないというのは、物足りないものだ。
テレビは余計なことをしてくれる。
しかもインフルエンザのとばっちりだ。
みんな右へ倣えの国民性に恨み言を言いかけたが、ま、詮無いことである。

こんな時には、いいきっかけなので、別の乳酸菌飲料を試すことにした。
ヤクルトV100などというタフマンみたいなデザインのがあったりする。
いろいろ試しているうちに、人気も収まるだろう。

日本人は、納豆ダイエット騒ぎをもう忘れたようだ。
本当に、こういう話題が好きなんだな。日本人は。

「トランスポータ」シリーズのジェイソン・ステイサム主演のアクション映画。

映像がスタイリッシュ。
オープニングからとにかくカッコいい。
セリフもとても少ない。

歩いてくるアップ一つで「はい、悪者です。」と説明終わり。
いわゆる、「こいつが今回の悪役ね」と説明された感じ。
なのに、こいつがすぐ死ぬ。
そんな、スピード感がかっこいい。
緻密に計算されすぎた「メカニック」なオープニング。

THE MECHANIC

とタイトル。
単なるメカニックのクルーなのか、メカニックなパーソナリティーなのか。
メカニックなパーソンなんて存在するのか?
タイトルの出し方で、テーマが提示される。かっこいい。
修飾語のタイトル。日本の映画で修飾語のタイトルってあったかな?

音楽がいい。
映像がいい。
きっと監督はゲイだな。
セックスシーンはあるが「商業映画には必要ですよね」という感じ。
もちろん、充分にエロい。メカニカルだ。


完璧で緻密でメカニカルな計画を練り上げ、暗殺を実行する殺し屋ジェイソン・ステイサム。信頼していた依頼者自身の暗殺依頼が来る。というのが主ストーリー。
依頼者の不肖の息子との関係。

メカニックというタイトルが行き着くところは、究極のメカニックの先にある人間らしさというのはお約束。人の生き方を示すのは物語の常。
たいしたストーリーじゃないが、映像と音楽で魅せてくれる。

損はしていない。


気をつけろ!

泣くぞ。
●香山リカ:東日本大震災被災地に見る「心のケア」。
 終末治療に見る「心のケア」。そして「父の死」。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20120213/299004/

 家族や職を失い、仮設住宅などで不自由な暮らしを強いられながら、以前とは似ても似つかぬ姿のふるさとを眺め続ける。――そんな被災者に対し、「さあ、もう震災から1年経つのですから、前を向いて歩き出しましょう!」とは、とても言えない。第一、そんな人たちに対して「効果抜群」の心のケアなど、あるわけもない。


香山リカなる人物を良くは知らないが、テレビで垣間見る限りは、とっても普通のことしか言わない人。という印象である。
 気心の知れた友人との仙台での食事の席で、ついこぼしてしまった。

 「先生、精神科医のできることって何だろう、と考えちゃうんだよね。なんと言うかな、”心のケア”なんて余計なことを考えず、せめて自然な回復力が発揮される邪魔をしないようにする。それが私たちのできることじゃないかな。」
(中略)
 ほら私、1年ちょっと前に父親を失ったでしょう。そのときどう考えてもすでに終末期なのに、高カロリーの点滴を受けたり薬で血圧を上げ下げするのを見て、思わず『もうけっこうです』って言っちゃたんだよね。“退院させます”と申し出て、機械や管をすべて外してもらって、意識のない父を家に連れて帰ってきちゃった。
 父はその後、半日ほどで命を終えたんだけど、その表情は病院のベッドとはまったく違ってどこか満足げだったし、私たち家族も“これで良かったんだよね”といまだに言い続けてる。

 なんというかこの頃、医療のできること、すべきことって『生きる邪魔をしない、死ぬ邪魔をしない』ということなんじゃないかな、って気もするな」
(中略)
 最近、爆発的なベストセラーになっている本に、「大往生したけりゃ医療とかかわるな」(幻冬舎新書)がある。

 著者の中川仁一氏は、老人ホームの付属診療所で働く70代の医師だ。中川氏は多くの高齢者を看取る中で、「もっとも理想的な死に方は、点滴、酸素吸入などの医療行為をいっさい受けない“自然死”だ」と結論づけている。

 中でも発病してからある程度時間がある「がん死」が、「おすすめ」なのだという。
(中略)
 一方「心のケア」に関しては、圧倒的に「まだまだ足りない」「日本は遅れている」という声のほうが強い。

 私もいまだに「アメリカでは精神科にかかるのがステイタスなんでしょう? 日本はまだ抵抗が強くて、困ったものですね」と言われることがある。

 しかし実はこの「ステイタスになる精神科通院」とは、高額な料金を支払って精神分析を受けること。それさえ最近のアメリカでは下火になりつつある。つまり過剰な心のケアのブームは、アメリカでも去りつつあるのである。

 脳の機能障害に由来する精神病などの治療が精神科で必要なのは、当然だ。しかしそうではなくメンタル面の「心のケア」は、そもそも「行えばよい」というわけではない。

 特に東日本大震災のような大災害を受けての「心の傷」、つまりトラウマに対しては、「ケアしすぎ」は効果がないどころか、むしろ悪影響のほうが強い。そのことが、さまざまな事例や研究で明らかにされつつある。

 当事者が「それを望んでいない」場合も、実は多い。

 多くの人の心には、トラウマを乗り越えて行く力が、きちんと備わっているのだ。そこに精神医療やカウンセリングが介入することで、むしろその力が阻害されることもある。

 「心のケア」押し売りが、正常な回復を遅らせる場合がある。あるいは「心のケア」が新たな問題、病を生み出すこともある。

 精神科医としては自己否定になってしまうので言いづらいのだが、私たちはそのことを知っておくべきだ。




ああ、なんか書こうと思ったけど、引用だけで十分だ。

私にも、これから看取らねばならない年寄りが二人が居て、看取る側の私たちも、これから老いて壊れてゆくわけだ。

抗うことは、当たり前の行動かもしれないが、受け入れる心の準備こそが一番必要なのかもしれない。

なんだか、読まなければならない連載がまた始まったようだ。
うぬぬぬぬ。おもしろい。

登場人物、誰も彼もが一生懸命に生きている。
昔気質のSFを見ているようだ。

人間達は、クウガとは何者かわかっていない。
敵は、日本語を喋らない。
人間は、遺跡から言語やクウガ使い方を学ぶ。
警察は、未確認生命体の行動パターンを研究する。
敵は、ラジオを入手し、人間の言葉を理解しようとする。

すべて登場人物のすべての行動が理にかなっている。

変なところがあるとすれば、主人公が根拠もなく「大丈夫だよ」と言うことだ。
理詰めの脚本の中で、とにかくその台詞が浮く。

「根拠のない信頼」それがヒーローというものだと言っているのだろうか。

目が離せない。

3DSがおもしろい。
なにがおもしろいのか。
本体がおもしろい。
ゲームを買わなくても本体を持っているだけでおもしろいのだ。

任天堂は小学生がメインターゲットだ。
お金が無い。一度買ったソフトは遊び尽くす。
遊び尽くしても、まだ楽しめるように本体だけで楽しくしている。

すれ違いMii広場が一番楽しいかもしれない。
すれ違ってアバターを交換する。それだけの事なのに楽しめる工夫がある。パズルピースの交換やみんなで戦うRPG。アイデアがある。

3分程度の番組が毎日配信されるいつの間にテレビ。NDS48にププッ。
手書き日記も始まった。立体で手書き日記が交換できる。
ショッピングチャンネルでは、次々とゲームの体験版が配信されてくる。「電波人間のRPG」なんて体験版がなければ知りもしなかっただろう。ダウンロードで800円と言われたら買いそうになった。
ミュージックチャンネルもmp3音源を一曲入れたらびっくりした。ビジュアライザーがゲームだ。L・Rボタンで合いの手がいれられる。
売れるほどのもんじゃないが楽しい工夫が無料でガンガン投入されている。
そしてそれが良い場を生み出している。

ふとサテラビューを思い出した。
BS放送の隙間を利用したゲームのダウンロード放送、サテラビュー。
放送局側との齟齬でわずか数年で終わったが、我が家のスーファミには、いまだにサテラビュー受信機が付いている。
もっとなにか出来たはずだったサテラビュー。
その残党が作っているのでは無いのか?
証拠にあちこちでサテラビューの曲が使われている。


あー、やっぱりつまらんかったー。

なんでペネロペ・クルスでないといかんの?

退屈なストーリーを音楽で盛り上げるだけの演出。

ディズニーランドのアトラクションの映画化なんて、一作だけで終わらせるべきだよな。
あー、いー、えーがだー。



ま、私がかまってちゃんのファンってだけだが。


ファン向けのpvみたいなのだと思ってたけど、ちゃんとした映画だった。
そしてストーリーがあるから一層ライブが映える。

いーえーがだー。
信じられない!

SDカードじゃなくて、専用メモリーカードだと!

これがないとセーブができませんだと。
セガか!
ドリームキャストか!
いつの時代の商売だ!

こんなことしてるから赤字になるんだ、ソニー!
セガみたいに潰れるぞ。


PSVita、大丈夫か?
敵は汎用機のスマホだぞ?わかってるのか?
うへー。腐女子向け~。

オダギリジョーが黒歴史にする意味わかるわ~。
あれは、ライダーって黒歴史じゃなくて、ホモ映画に出たって黒歴史だったのね~。

でふぉると

2012年2月8日 日常
コンピューター用語として「デフォルト」という単語に出会ったので、デフォルトというのは、「規定値」という意味だと思っていた。

ところが国債暴落で国家破綻、債務不履行って時にも「デフォルト」という言葉を使う。

「へー、そんな使い方もあるんだ~。」で、ほおっておいていた。


昨日の日記で、昔の西くんの悪口を書いているときに、「デフォルト」という単語を使った。

悪口で使ったからか、なんだか気になった。

デフォルトってどういう意味なんだろう???


私がこういう事を考えるときは、辞書に書いてない「語感」を問題にしている。
他国語を理解するときに、辞書では決してわからない「語感」というものが立ちはだかる。
そこを理解することを指している。

まっとうなやり方は、英英辞典を引くことなんだが、私の英語は1年漬けの受験英語なので、英英辞典まで手が回らなかった。持っているのは研究社の英語中辞典のみ。
てなことで、私の語感理解は分解でやる。

接頭辞と語幹に分解する。

デフォルト・・・。デとフォルトかなー。

フォルトっていったら、テニスだよなー。
ダブルフォルトで1点失うんだっけ?よーしらんが、サーブミスしたときに審判が「フォールト」って言うよな-。岡ひろみも良く言われてたよなー。

フォールトって失敗って意味かナー。

失敗を「デ」なわけだよなー。

de-って接頭辞はどんな意味か覚えてないナー。
多分、「逆」か「めっちゃ」ってあたりだろうナー。
接頭辞なんて、だいたい「逆」か「もっと」のどっちかなんだよ。
「肯定」と「否定」って言ってもいいけどね。
ちょっと下降気味な語幹もあるよなー。「de-」って。
インクリーズが増加でデクリーズが減少。覚えたなぁ~。
「弱気含み」な語だよね、de-。

「失敗」が「弱気含み」、終わっちゃってるよね。

「でふぉると」
「で」「ふぉると」
「失敗」の「de-」方面・・。


初期値・・・債務不履行・・。


失敗したのを戻すって感じなのかな?

失敗をチャラにして、最初からやり直す。

日本語で言えば・・・「ふりだしに戻す」。こんな感じかぁー。


そんな風に「でふぉると」像をなんとなく理解して、はたと気付いた。

西くんの性格を「デフォルト」なんて言ってすみません。
失敗もしてないし、ふりだしに戻ったわけでもない。
単に「規定値」という意味で使ってたけど、
デフォルトって言う言葉は、失敗を戻すって言う意味なら、大失敗です。


ああ、よその国の言葉なんて不用意に使うもんじゃあねぇなぁ。

失敗失敗、ふりだしに戻ろう。


もう、終わった感があるし、そもそも毎日放送なんて大阪のローカル放送局だし、こんなとこに書いてもただの自己満足なんだけど、日記って本来、自己満足だからいっか。

今日は西くんのパンを食った。
めっちゃ普通。

ちちんぷいぷいのコラボパンはこれまで
「味噌ダレの豆腐ハンバーグ」
「トマトジャム&トマトホイップ」
と、今買わないと二度と食えないものばかりだったのに、
西くんプロデュースのパンは「目玉焼き風ソーセージパン」。
なんて普通なんだ~~!
「夢の新婚朝ごはん」がテーマだそうで…。

こんなに普通の人なのに、なぜ結婚できないんだろう。

まだ、角純一がメインパーソナリティーで、コーナー司会をやってた頃の西くんは確かにちょっとやな奴だった。
どこか心を開いていないというか、他人を疑うのがデフォルトというか。
番組で世界一周をやってから、西くんは変わったと思う。
世界を回って、いろんな人に出会って、しんどい目いっぱいして、何かがふっきれたって感じだった。
角純一が引退して、メインパーソナリティーを西くんが引き継いで、後輩たちが育って、なんだか余裕が見えてきた西くん。

その西くんのプロデュースしたパンが、こんなに普通。

こんな普通の兄ちゃんが、独身をこじらせて、世を拗ねてしまっていた。というのは、西くんの問題ではないのじゃないだろうか。

都会の競争社会の中で、孤独に戦い続けることを強いられる。そういう環境が心をこじらせてゆくのじゃないだろうか。

西くんは世界一周で本当によくなった。
日本社会の狭い基準がすべてになると、本当にしんどいと思う。
広い世界をみると、ま、こんなもんでいいんだ。とどっかで達観する。

「夢の新婚朝ごはん」。
こんなに普通の望みを、普通にプロデュースして、にこにこしていられる、西くん。
彼はもう、大丈夫だと思う。
肩の力が抜けている。
あとは出会いだけだろう。

西くんの、しょーもないパンを食べながら、そんなことを考えた。


ps
画像を貼ろうと思ったが、ヤマザキのhpには見つけられず。
検索したら写真入りでブログ書いてる人が結構いたので、そちらを見てください。
さすがに個人ブログから無断転載はしたくないもので。
正直、玉置浩二なんて肩幅張ったスーツ着てるだけの人と想ってた。

昨年の「堂本兄弟」に出演した玉置浩二を見るまでは。


いきなり新曲を作り出す玉置浩二。
正直、頭は少し、イッちゃってる。
それでも、出てくる音はすごい。

堂本兄弟は、まともなプロの進行が一人もいないまま、いわゆる「あーてぃすと」達が好き勝手に進めているノリだけの番組だ。
友達同士がふざけているだけみたいなところもある。
いわゆる「フリーダム」な世界だ。

だからこそなのか、玉置浩二ははじけていた。

たぶん、なんらかの薬が入っていると思う。

客席で青田さんも見ている。

ちょっといきかけている玉置浩二は、存在そのものが音楽だった。
ただ、「心が動く」事にしか興味がない。
「人の心を動かす」そんな「音」にしか興味がない。
もう、それは、人でなくなる寸前の人だ。
堂本兄弟にたむろしている「あーてぃすと」達も、そんなあたりに暮らしている人間だが、玉置浩二は、もう、人の形をした音楽になりかけている。

こんなひとに、社会生活は無理だ。

それが青田さんなのか誰なのか知らないが、誰かちゃんとわかっている人がずっと支えていないと、この人は、人間でなくなってしまう。生きる音楽でなくなれば、死人になるだけだ。

文化なんてものは、そんなものだ。

けっして、何の役にも立たない。

ただ、感動があるだけだ。


こんな人を生かすには、ただお守りをしていればいいというものではない。
だらけてしまえば、ずっとだらけているだろう。
社会に非適応なものなのだ。

常に、尾根を歩かせ続けなければならない。
ストレスにさらさなければならない。
墜ちたら死ぬ。

ようやく浮き上がってきた玉置浩二。
尾根をどれだけ歩き続けられるのか。
支える人が、どれだけ全力で尾根を作り続けられるのか。

脳みその中身が音楽でいっぱいになればなるほど、
音楽以外の脳みそがどっかへ行ってしまうのだろう。
脳みそのほとんどが音楽になっちゃってる。
そんな希有な人間が、ここにいる。



今日、新年一発目の堂本兄弟を録画で見た。
去年の総集編でトークは省いて音楽だけだった。
そのなかでも、未放送の玉置浩二が歌う「悲しみにさよなら」これはすごかった。
堂本兄弟を支配していた。

もう、幾度歌ったかわからない歌をこれほど音楽として生かし続けられるのだろうか。

こういう人間は、本当に、大事にしないといけないと思う。



ただ、

どうせ、

「旬」でしかないってことは、わかっている。

わかってるつもりだ。

もう今さらX-MENもいいだろう。と、思っていたんだけど、こいつがなかなか面白い。

X-MEN組織を作ったプロフェッサーX達、初代のミュータント達の話なだけに、マイノリティの抱える苦悩や他人と馴染めない悩み、いかにして社会と折り合いをつけるのか、同じ立場でも異なる人生を歩む惜別、X-MENという物語が根源的に抱えているテーマが純粋な形で湧出している。

私もX-MENは、映画を2〜3本見ただけなので、どのキャラが敵キャラで、どのキャラが味方だったかもはっきり覚えてない。だから、「え、何でこの人が、こっち側にいるの?」みたいな仕掛けがピンと来なかった。ま、それは、私の記憶力の問題とはいえ、ニクい演出みたいなものは、知ってる人にしかわからない。

一瞬ウルヴァリンが出るのもいい感じだが、知らない人には「???」だろう。

ちょっとオススメな大筋ではあるが、X-MENを見たことない人には、全然面白くない映画なので、結局オススメできない代物。

んー、いい話なんだがな。単体でも成立はしているけど、あとに続く話への仕掛けを削除したら、カスカスのお話で、潤いがなさすぎるだろうと思う。

ゲイの話だ。と言い切っているブログをみつけて、確かにな。ともおもった。

ま、アメコミなんてそんな程度のもんだ。

文化は連続の中でしか語れない。
アメコミ文化を楽しむのは日本人には無理だろう。
キューバ危機なんて、日本人にとっては遠すぎて、非現実世界と大差がない。
きっと横たわる人種問題も日本人にとっては、フィクションだ。

そういうことだ。

つまらん

堤真一が居なければ成立しない映画。
大した役者だ、堤真一は。

大阪人にとっては、あり得ない切り貼りで、「おい、綾瀬はるか!どんだけの距離走ってるんだよ。」と、突っ込んでしまう。ジャンジャン横丁曲がったら大阪城、そこを曲がると堺筋みたいな。

役者がみんな東京の人ってのも、何だろね。
変な感じ。

そして、何も起きないストーリーと工夫のない画づくり。

プリンセスはガチガチの演技だしね、魅力はあるけど。

最後の父とのシーンはちょっと良かったけどね。

ま、観なくてよし。

恵方巻

2012年2月3日 日常
今年の恵方は北北西。
ここ数年と方角が変わった。

うちの食卓から北北西を向くと…、ゴミ箱だ。

生ゴミ、プラ、再生。自治体の要請で三つに増えたゴミ箱が鎮座している。

ゴミ箱に向かって黙々と恵方巻を食べる。

丸かぶりは面白がって毎年やっているのだが、ゴミ箱を見ながら飯を食っても、福など来なさそうだ。

黙々と食べながら考える。
せめて視線の先に別のものがあれば、そっちを見る。
例えば…宝船。
宝船のシートを壁に貼っておけば、そっちを見るのでゴミ箱は目に入らないと思う。
向かって来る宝船を見ながら食べる。これはめでたい。
「開運恵方巻。恵方 北北西」などと書いておけば販促ツールにもなる。
豆屋が鬼の面を配るんなら、寿司屋は宝船を配っていいんじゃないの?
来年は、どっかのコンビニが販促ツールとして配ってくれ。
と、思ったところで恵方巻を食べ終えた。

今年の願いは、そんなつまらない願い事をしてしまったようだ。

絶対的な正しさを求めるのは、宗教である。
正義を求めるものには、悪が必要となってしまう。

もちろん、宗教のことはめんどくさい。
どんなにおかしな宗教でも、道に迷い、苦しみ、生きる術が見つからない人間にとって、そのおかしな宗教にすがる事で生きてゆけるのであれば、その宗教を否定するのは良いことではない。
だから、信教の自由は保障されるべきだ。と、私も思う。

てなわけで、「なんか変だな~」と思っていても、それを信じている人に、どう声をかければいいのか困ることがある。

たが、「正しさ」にこだわるのは、どうにもこうにも不自由だ。
杓子定規に生きるのも良い事かもしれないが、窮屈そうだし、「この生き方が正しいから、お前も守れ」なんて言われたら、曖昧なほほえみとともに、ご遠慮させていただく。

私は、ただ、逃げているだけなんだろうか?

そんな事を考えている時に、こんな文章に出会った。
◆尾藤誠司の「ヒポクラテスによろしく」
「平成仮面ライダー」に現代医療者像を思う
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/bito/201201/523321.html
(※無料登録しないと読めないかもしれません)

昭和の仮面ライダーは、善悪がキチンとしていた。
平成ライダーは、善悪そのものが混沌とし、ライダー同士が闘ったりする。
それは時代背景を映し出す鏡で、医療従事者にとっても、「絶対的正しさ」というものが失われているのが現代である。

命を預かる医師にとって、この問題を真剣に考えることは、仮面ライダーよりも普通のサラリーマンよりも切実な問題なのだろう。

そして、行き着いたのが、紹介させていただく「新医師宣言」である。

なんだかグッと来るので、少々長いが、無断引用させていただく。

“もはやヒポクラテスではいられない” 21世紀 新医師宣言プロジェクト

私の新医師宣言
http://www.ishisengen.net/

私は、毎日の仕事の中で、あきらめそうになったり、「まあいいか」と妥協しそうになったり、望ましくない誘惑や圧力に流されそうになったり、患者さんに寄り添う心の余裕がなくなりそうになったりすることを否定しません。 そんなときには、私は以下の宣言文に立ち返ります。そして、医師として患者さんや職場の仲間とともに悩みながら、でもへこたれずに歩んでいくことを誓います。

1.
私は、患者さんについてまだわからなければならないことがあるという前提に立ち、患者さんの気持ちや苦しみを想像し、理解する努力をします。 一方、自分の言葉が意図するとおりに、患者さんに伝わらないことも認識し、お互いが分かり合うための工夫を怠りません。

2.
私は、診療方針を患者さんと決める際に、自分の方針を押し付けすぎていないか、逆に、患者さんに選択を丸投げしていないか振り返り、患者さんとともに確認します。

3.
私は、医療行為が常に患者さんを害しうることを忘れません。もし不幸にして患者さんに重い副作用などが発生した際、患者さん本人や家族の悲しみに対し誠実に向き合い続けます。

4.
私は、不適切もしくは過剰な薬の処方や検査が患者さんに行われていないか常に注意を払います。その状況に気付いた時には、患者さんと相談し、よりよい方法をともに考えます。

5.
私は、患者さんの健康の維持や回復、症状の緩和を支援するとともに、患者さんの生命が終わっていく過程にも積極的にかかわります。

6.
私は、どんな状況にあっても患者さんが希望を持つことを最大限尊重します。医療だけでは患者さんの問題を解決できないような状況のときにも、患者さんの相談者でありつづけます。

7.
私は、自らの心に宿る敵は、自己保身、経営優先の効率主義、外部からの利益供与であることを認識します。そして、ときに自らの医学的好奇心すらも患者さんの利益に反する要因となることを心に留めます。

8.
私は、可能なかぎり患者さんの希望を聴いた上で、自分にできることと、できないことを伝えます。時には、施設内外を問わず自分よりうまくできる人に協力を依頼し連携します。

9.
私は、患者さんや職場の同僚に助けられたとき、「ありがとう」と声に出して言います。また、心の折れそうな同僚が身近にいたら「どうしたの?」と声をかけ、話を聴きます。

10.
私は、文献からは医学に関する知識を、先人からは生きた技術を、同僚や他職種の仲間からは臨床の知恵を、後輩からはあきらめかけていた情熱と気づきを、そして患者さんからは、自分が、医師としてどうあり、何をすべきかということについてのすべてを学び続けます

11.
私は、自分の誤りに気付いてくれる人を大切にし、自分への批判に積極的に耳を傾けます。 同時に、同僚や上司の疑問に感じる態度や行為に対しては、それを指摘するようにします。

12.
私は、医療が公共財であり社会的共通資本であるということを前提に、専門職の観点からは理不尽だと感じる要求に対し、目を背けず向き合います。


                   年      月 氏名


この文章の「患者さん」を「恋人」や「家族」「得意先」など、あなたの大切な人に置き換えながら読んで欲しい。

正義のない時代、何を信じて生きてゆくのか。そんな苦悩のあとが見える。

耳の痛い話も多い。


紹介はするけど、私自身もこれを守って生きようと宣言するものではない。
方針としてはいいけど、「ちょっと、しんどい。」とも思う。

それにしても「医療が公共財であり社会的共通資本である」という意識は、すごいなぁ。
普通の仕事も、実はそういう側面を持っているんだけど、医者を志す人は、やっぱりちょっと違うな、と思う。
ま、金儲けだけで医者になってる人がどれほど多いかは語らないこととするが。


そして、こんな文章で終わっています。
 私たち医療者も、この平成ライダーをちょっと見習ってみると良いのではないでしょうか? 自らの正体がばれてもいいじゃない。力が至らなくて凹んでもいいじゃない。一人で何ともならない時はいろんな人に助けてもらってもいいじゃない。楽しい時は笑っても、泣きたいときは泣いてもいいじゃない。「今、その場で、みんなと、考え続ける医療者」が、平成の時代にはしっくりくると私は考えています。

あー、ちゃんと生きようーーー。

「もしドラ」が流行するなんて、世も末だなと、どこかで思っていた。

マネジメントが出来ない人が多すぎるのは、もっともなんだけど、マネジメントなんて「番頭」じゃん?とどこかで思う。

具体的にそんな事を書いている文章に出会い、やっぱそうだよな。と思う。


◆松岡功のThink Management:マネジメント信仰の落とし穴
http://magredirect.itmedia.co.jp/r/pc/1A/1d3/x/enterprise/articles/1201/26/news017.html
今回は、マネジャーに求められる能力と、その一方でマネジメント信仰がもたらす落とし穴について考えてみたい。

(前略) しかし、最近になってこの論議は違う角度からもとらえる必要があると感じている。そう感じたのは、『マネジメント信仰が会社を滅ぼす』(新潮新書)という衝撃的なタイトルの本を読んだのがきっかけだ。著者である経営コンサルタントの深田和範氏は、この本の中でこう述べている。

 「かつての経営者たちは、世間に広まったマネジメント理論や手法に惑わされず、自分の経験・勘・度胸に基づいて意思決定し、それに従って周囲の者を動かしていた。組織の中心には経営者たちの意志があり、そのもとでビジネスが行われていた」

 「ビジネスをするためには資金と労働力を効果的に使わなければならないから、マネジメントが必要になった。この段階では、あくまでもビジネスが主であって、マネジメントはビジネスを効果的に行うための理論や手法という位置づけにあった」

 「ところが、いつの間にかビジネスとマネジメントの関係が逆転した。いつの時代も、どこの世界にも通用する、絶対的なマネジメント理論・手法が存在し、それに基づいてビジネスが行われるべきだと考えられるようになった。そして、経営者たちの経験・勘・度胸に頼って行われるビジネスは非科学的で、時代遅れのものと考えられるようになった」

 「ところが、ビジネスで成功を収めた人の多くは、成功の秘訣を自分の経験・勘・度胸に頼ってきたことという。私たちはもっとシンプルに、経験・勘・度胸を信じて、自分の意志で動いてもよいのではないか」

 そして深田氏は、ビジネスとマネジメントの関係についてこう強調している。

 「マネジメントには付加価値を生み出す力はない。付加価値を生み出すのは、あくまでもビジネスである。つまり、企業活動における主役は、あくまでもビジネスであって、マネジメントはビジネスを支える黒子である」

 まさしくマネジメント信仰の落とし穴を突いた見解である。マネジャーの皆さんには、ぜひ読んでいただきたい一冊である。




そうなんだよ。
近頃の世の中がおもしろくないのは、わかったことしかやらないって事なんだよね。
誰も、おもしろいからやっちゃえ!ってならない。
アートな力が削がれすぎている。

てなこといって、私も、ゲームは続編しか買ってないけどねー。
楽しい迷惑メールが来たので、無断転載違法コピーです~。



♪千の金に乗って♪

ロトの売り場の前で泣かないでください♪

そこにお金はありません♪

当たってなんかいません♪


橋下の扱い方

2012年1月30日 日常
橋下の扱い方
成長戦略・・・。

不連続性への挑戦というのは、やらなきゃならん事ではある。

ただ、こういう威勢のいい人の陥る罠は、いったとおりにならなかった時にどうなるかだ。
たぶん、彼が言っている、ほとんどのことは実現可能だし、やらにゃならんとみんなどこかで思っていても、ついついやってないことだから、やるという言い出しっぺが出てきたら、出来てしまうと思う。

教育はなんとかせにゃならん。
赤字もなんとかせにゃらなん。
二重行政もそうだろう。

ただ、成長戦略というのは、どうだろう。

「デフレの正体」方式で言えば、成長とは団塊の山が通り過ぎていった幻のようなものだ。
そこに巨大な消費の山があり、年齢と共に成長分野が変わっていった。
それだけのことだ。
一人の人間が毎日毎日精一杯働いて、毎年売り上げが増えてゆくなんて、妄想でしかない。精一杯の分だけ儲かる。精一杯は精一杯なんだから、精一杯以上に儲かる方がおかしい。
自分の分相応だけ儲かればそれで良い。それが道理というものだ。

少子化は1973年から始まっている。
平均寿命が伸びたから気付かなかっただけだ。
2005年から実質的な日本人口が減少局面に入っている。
真剣に成長戦略を描くなら少子化対策に本腰を入れ、20年後を待たねばならない。
そして、少子化対策を本気でするなら「なにがなんでも成長」という社会を変えねばならない。

それをほったらかしにして、「成長」を求めるなら、
成長を世界に求めるしかないが、
世界的な人口増加地域は日米欧にはない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Population_growth_rate_world_2005-2010_UN.PNG

橋下氏がどのような成長戦略を描いているのか、読んではいないが、
中国からの観光誘致などを目指しても、たいした期待はできないだろう。
そもそも「成長」という言葉自体に私は疑問を持っている。

アフリカにしか成長がない時代、アジアの都市、大阪の成長を確約するのは、かなり難しいのではないのか?
中国ですら人口増加していない。一人っ子政策で減少局面がもうすぐだ。

需要がないのに成長を求めるとき、無理が生じる。
無理を通せば道理が引っ込んでしまわないのか?

道理を引っ込めてしまうと、侵略が簡単だ。
「成長戦略」に戦争の足音を聞く。
しかし、成長を望んでいるのは他ならぬ国民である。


ほったらかしの事をやり遂げるまでは、橋下で良いだろう。
それ以上をやり始めたら、引きずり下ろさなければならない。

国民は決して、熱狂してはいけない。
成長なんて甘言に惑わされてはいけない。



東京地方で、橋下人気が過熱しているのが不気味だ。

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