原子力ムラの力

2012年3月20日 日常
原子力ムラの住人達が一番得意な事は何か?

それは、権力闘争だ。

いま、激しい権力闘争が原子力ムラに渦巻いている。

勝ち残るのは、闘争慣れしている連中だと思う。

正義などは勝ち残れない。

そんな気がする。


私は、再稼働に賛成だが、利益誘導による権力構造を維持したまま、従来組織が再稼働を行う危険性には目を潰れない。

命をかけて原発を動かす組織でないと、信頼できない。

軍が運用するべきなんだろうな。ほんとは。
ま、周辺諸国の反発必至だからやるわけないけど。

がれき処理妄想

2012年3月14日 日常
がれき処理が問題になっている。
被災地の学校の隣にうず高く積み上げられたがれきから、粉塵が舞い上がり、蝿が飛び回る。仮設の処理機を持ち込んでいるが通常の100年分が一時に発生したのだからおいそれとは片付かない。
全国の自治体に処理を応援しているが、今度は付近住民が猛反対だ。
他人の痛みは受け入れられないほど、常日頃から他人の痛みを引き受けているのだろうか。政治家は痛みを押し付けすぎだ。アイデアがない。

関東大震災の時は何をしたか?
がれきで運河を埋めた。
舟運から陸運に変わろうとしていた矢先、変化を強力に推し進めた。
結果、トラックだらけになり、黒煙が増え、花粉症に苦しむことにはなるが、道路網の発達と戸口から戸口へという輸送革命が起きた。

もちろん今回は巨大津波なので、規模が違う。
関東大震災は地震と火災なので燃えるものは燃えている。
津波は破壊のみ。加えて海のものも陸に上がっている。
広大な地域で発生したがれきの量は比べ物にならない。

埋め立てるしかない。
私はそう思う。

そして、妄想した。

福島第一原子力発電所が心配だ。
今も放射能を垂れ流している。
特に海洋汚染が心配だ。
多分冷却水は海へと漏れ出してる。
これをせき止めるような巨大な潮止めを作れないか?
湾全体を堰き止めるような土の壁を埋め立てられないか?
あの湾での漁業再開は最低でも数十年は無理だと思う。
がれき処理と放射能汚染対策が一時に解決する。

と、考えたあと、
放射能にさらされて、誰が埋めたて作業をおこなうんだ?
と思いが至り、妄想と知った。

ずっとスナックエンドウだと思ってたけど、スナップエンドウが正式名称。
1986年に通産省が統一したそうだ。
そんな古くからあったのか。スナップエンドウ!
アボカドもアボガドと発音してたけどアボカドが正式名称。
あぼけぃどぅー、と発音するのだろうか。

子供の頃に食べてないものは、身につけるのが大変だ。

ps
調べてみると、あゔぉかぁー どぉーだった。
アクセント位置はあたりだが発音は不正解。
ま、そんなもんだろう。

戦争への足音

2012年3月5日 日常
あんまり好きじゃない森永卓郎が、私が妄想していたようなことを書いている。

民主党に嫌気が差し、自民党にはあきれかえる国民は、
強いリーダーを求める。
強いリーダーは、金融緩和を主導しロケットが上がったような経済の急回復が起きるだろう。

 これは、振り返れば大恐慌に見舞われた1930年代の先進国で起こったこととよく似ていると私は思う。1930年代、日本やドイツ、イタリアでは、「強いリーダー」が次々と登場し、経済的な低迷と社会的な閉塞感を打ち破るかたちで、強烈な指導力をアピールした。彼らは民主的な話し合いを否定し、場合によっては暴力的な改革を実施した。経済の浮揚効果もあって、そうした暴力的改革にますます国民の支持が広がっていった。

 私は最悪の場合、こういったことが日本でまた繰り返されてしまうのではないかと考えている。そして、カリスマ型リーダーは支持が頂点に達したところで本性をあらわす。

 そこで行われる政策の特徴は、ひとつには「社会的弱者」を生けにえにし、多くの国民に「この階層に比べれば自分たちのほうがましだ」と思わせることだ。ふたつめは、反対者への弾圧である。三つめは、厳しい思想統制・言論統制の実施だ。四つめが、対外協調路線から防衛力強化への転換だ。これが進むと戦時体制につながるのは歴史が教えるところだ。



●被差別者の創造
●反対者への弾圧
●思想統制・言論統制
●防衛力強化

「○○な考え方のやつなんか死んでしまえばよい」という考え方だ。

すでに、熱狂ははじまっている。

こんな事ばっかり書いている私は、いつ殺されるんだろうね。



 これから国政で行われようとされていることは、企業経営ともよく似ている。かつてカリスマに率いられていた西武百貨店やダイエーは、当初は業績もよく、魅力的な会社だった。西武百貨店のトップである堤清二氏が「おいしい生活」「ふしぎ大好き」というスローガンを打ち出していたときは、西武百貨店の売り場は最先端の情報を発信していた。ダイエーも、当初はメーカーの圧力に屈せず安売りをする庶民の味方として支持を得ていた。

 しかし、カリスマの支配が長期化するにつれて、すべての社員が上を見て行動するようになり、業績は次第に悪化した。上からの支持には逆らえないため、社員は自分の頭で考えることをしなくなったからだ。


 国民の不満は頂点に達している。私が恐れるのは、そうした閉塞状況を脱するためには、非民主的な手法で世の中を変革することを容認する社会になってしまうことだ。1930年代の世界史の経験が教えるのは、デフレが独裁体制を用意することがあるという事実である。全体のパイが縮小していくときには、他者への寛容の精神は失われ、弱者を切り捨てていく方向に政治経済体制は突っ走りかねない。今の日本はこのような状況を迎えているように私には見える。

 私は民主的な対話によって徐々に社会を変革するには、独裁政権の誕生を待たずに金融政策を緩和し、全体のパイを拡大することだと思う。そうした状況でこそ、大きな痛みなしに財政の健全化が図れる。



 だが、政府はあまりにも長きにわたってデフレを放置しすぎた。もうすべてが手遅れで、これから再び強い政治を支持する熱狂がやってくるのかもしれない。そうした時代状況の中でも正気を保てる人が一人でも多く残ってくれることを祈りつつ、ひとまずペンを置く。これまでのご支援、ありがとうございました。





あーあ、またひとり、退場しちゃった。

やだなぁ、うちの子は、戦場に行かせたくない。

失礼な物言いだが、子供のない人間には、この気持ちは、一生わからないと思う。

類推ではわからないものが確かにある。

例のごとく、おもしろ迷惑メールを無断転載。
迷惑メールの書き手も癒しを求めてたりするのかなぁ。


件名:(*´・ω・) y━o。 o ○

本文:
  ○ 。
(´・ω・`)

○  。
(´・ω・`)

○ 。
(´・ω・`)

   ○  。
  (´・ω・`)

∧_∧    。 o
(*´・ω・)y━o(・ω・)
( つ□ノ 
し’ し’
ショボン玉



これだけの高熱が出たら怖かったもんだ。
しかし、インフルエンザは経過がはっきりしているから、何も怖くない。
枕元にiPodがあってネットにつながってるから疑問はいつでも解決できる、というのも気を楽にしてくれる。

抗インフルエンザ薬に関しては、疑問が残る。
発症した日では判定薬が使えない。
二日目になったら、高熱はすでに出ている。
抗インフルエンザ薬では熱に対処できない。
結局訳に立つのは、氷まくらと解熱剤だ。
抗インフルエンザ薬を使って二日で熱が下がる。
使わなくても二日ぐらいではないのか?
結局、抗インフルエンザ薬は何をしたのだろう?
医者の懐が暖まり厚生保険という国家の赤字が増えただけなのか?
重症化しなかったから、呑気な事を言ってられるんだとは、わかってはいるが。

スポーツ用のアイスバッグは便利だ。
氷マクラは必須だ。多分3つとも使っていたと思う。

インフルエンザウイルスは脂でできたエンベロープに包まれていて、エンベロープが破壊されると感染しなくなる。
エンベロープは油なので、洗剤やアルコールで簡単に壊れる。
紫外線にも弱いので、シーツなども普通に洗えば良いし、くしゃみ跡が付いていても、それから感染することは、ほとんどない。
だから、手洗いの有効性にも疑問があるという説もある。
え?なら、いったい、何から感染しているんだ?
マジで誰かがばら撒いてるの?
飛沫感染とキスぐらいしかおもいつかない。

5日ほど寝てたが、「みんなといっしょ」はフレンド61人に増え、「アンチャーテッド」は1章から32章まで進んだ。

体温が40度も超えると脳細胞のタンパク質が固まり始める。
頭の中で記憶が幼少期へと遡ってゆく。大事な記憶を護るために原初記憶をテンポラリー脳で反芻し、記憶強化を行っているのだろう。
脳は、動画圧縮と同じ手法で記憶を圧縮する。
原初記憶はベタ画像として保存し、分解し、後期記憶はそのインデックスの組み合わせとして記憶する。原初記憶が壊れると、それに紐付られた記憶全てに欠損が生じる。それは困る、と原初記憶を何度もリード・ライトを繰り返し守ろうとする。

熱が下がると頭の中がスッキリした気がする。
何かが壊れたのだろう。
思い出すと、思い出せる。一度思い出すと、スッと出る。
脳って面白い。
多分、私は病気前よりかなり脳天気になってるはずだ。
一番新しくて不要なものを忘れちゃったはずだ。

快癒

2012年3月1日 日常
どうやら治ったようだ。
ただ、とにかく眠い。
請求書を速達で送る。
風邪のひきはじめのように眠い。

映像タイトルを2枚ほど仕上げ、寝る。
予想以上に時間がかかってしまった。

●香山リカ:「ご遺体と対面したときの気持ちは?」で精神的な二次被害を生んだ
 「専門家」調査 ――東日本大震災1年を迎えて見えてきた「教訓」とは
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20120227/300520/?ml

 より「生々しい」調査を受けた方の話。

 初対面で見ず知らずの人から、「津波のときにはどこにいましたか?」「ご家族のうち何人が亡くなったのでしょうか?」「ご遺体と対面したときの気持ちは?」などと聞かれる。「私は実験台なのか」と、怒りや空しさがこみ上げてきたという。

 また、まだ家族を失ったことが現実だとも思えない時期なのに、どこかからカウンセラーがやって来て、「つらかったでしょう? 悲しい感情を全部、はき出しましょうね」と言われ、より混乱した人もいたようだ。

●子どもたちを集めて「海の絵を描いてみよう」と絵を描かせた
●学校で「大震災と私」という作文を書いてもらった


 こうした話も聞いた。これらも一歩間違えば、心の傷をえぐるような「危険な介入」になりかねない。



 以前の知見では、大きな災害や事件を経験した人に対して「デブリーフィング」と言って「なるべく早く心の内を語り尽くす」ことが、その先のPTSD(心的外傷後ストレス障害)を防ぐという説が主流であった。おそらくこの頃の知識を元に行われているのだろう。

 ところが実際にはその後、これにはPTSD予防効果がないどころか、逆に状態を悪化させてしまう“副作用”があることがわかってきた。

 今では災害時「心のケア」で最も大切なことは、「無理に心のケアをしようとし過ぎない」になっている、と言っても過言ではない。

 なんとも皮肉な話だ。


 たとえば家族を失う悲しみを経験した人に対して、どんな高名な精神医学者でも、それを一瞬で消すことなどできるはずがない。

 結局のところ、本人がその厳しい現実を受け止め、ゆっくりと悲しむ時間を取り、少しずつそこから立ち直る、という力に期待するしかない。

 その回復力は、たいていの場合、どんな人の心の中にも備わっているはずだ。

 周囲の人ができる最善のサポートは、「そのプロセスの邪魔をしない」こと。心の専門家でなければなおのことだ。


 「してほしくなかった、新たに傷ついたことは?」という質問に対して、「わかったふりの同情の言葉や押し付けがましい言葉を受けたこと」と「心の傷を新たに深めるような精神科医やカウンセラーの対応」という回答の合計が、50%を超えているのだ。  「してほしかったこと」1位は、「とにかくそっとしてほしかった」となっている。

 とにかく余計なことをしないで。ひとりで静かにいさせて。


 そもそも母親達を追い込んだ「心のケア」は、もちろん「被災地のためになにかしたい」善意からの行動だろう。しかし善意は時として「計算づくの行為」よりもやっかいなものになりうる。そのことは心しておきたい。

妄想

2012年2月29日 日常
製薬会社にて

今期は業績が、かんばしくないので、例年より多い目にインフルエンザウイルスを散布しましたが、予想以上の大流行となってしまいました。
ごめんね、てへぺろ。

爆睡

2012年2月28日 日常
0645。38.1℃

腹が減る
寝過ぎであちこち痛い。
別の話題を提供すれば、プロビオが戻ってくるかもしれない。

「もずく酢」を毎日食べると、痛風に効く。ってのは、どうだ。

ビール党男性が健康診断で引っかかるのが尿酸値。
これを高いままほおっておくと、痛風になる。

基本は食事制限。プリン体を制限される。
エビ、イカ、タコ。ビール、タラコ。プリン体は、細胞の構成物質なので、細胞数の多いものがダメだ。鶏卵は細胞が一個なのでOK。
だから、重量当たりの細胞数って事で干物もダメと言われる。
カレイはOKで、カレイの干物はNG。訳がわからない。
確かに重量当たりならそうなるが、一食で一匹食べるのは同じだろ?

実生活への配慮のない医者のたわ言に振り回されたくない。
そんなわけで、手段を探すと「もずく」にぶち当たった。
どっかの科学者が「もずく」に尿酸値を抑える効果がある。と発表したそうだ。
それを得意先に薦められたので、「はん!そんなの嘘だと証明してやる。」と毎日食ってやった。
一年後、見事に尿酸値が下がった。
医者が首をかしげた。「この値だと、投薬しないと下がらないはずなのになぁ」
薬とモズク。どっちがいいのか?

迷いながら、今日ももずくを食った。

間違いなく、モズクは尿酸値に効果がある。


ん?インフルエンザが流行しているからプロビオがなくなるのであって、
尿酸値なんて誰も興味がない?
もっともだ。
付け加えるなら、こんなブログにテレビのような影響力もない。
もっともだ。わはははは。


ううむ
毎日飲んでいるLG21が手に入らない。
同じ明治のR-1がインフルエンザに効くという話題がテレビで出たせいで、ただの乳酸菌飲料LG21まで品薄だ。
甘さ控えめなんて壊滅だ。

別に飲みたくもないのだが、飲まされているうちに習慣になった。
きっと私の屁がくさかったので飲まされたのだろう。

しかし、習慣になったものがないというのは、物足りないものだ。
テレビは余計なことをしてくれる。
しかもインフルエンザのとばっちりだ。
みんな右へ倣えの国民性に恨み言を言いかけたが、ま、詮無いことである。

こんな時には、いいきっかけなので、別の乳酸菌飲料を試すことにした。
ヤクルトV100などというタフマンみたいなデザインのがあったりする。
いろいろ試しているうちに、人気も収まるだろう。

日本人は、納豆ダイエット騒ぎをもう忘れたようだ。
本当に、こういう話題が好きなんだな。日本人は。

●香山リカ:東日本大震災被災地に見る「心のケア」。
 終末治療に見る「心のケア」。そして「父の死」。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20120213/299004/

 家族や職を失い、仮設住宅などで不自由な暮らしを強いられながら、以前とは似ても似つかぬ姿のふるさとを眺め続ける。――そんな被災者に対し、「さあ、もう震災から1年経つのですから、前を向いて歩き出しましょう!」とは、とても言えない。第一、そんな人たちに対して「効果抜群」の心のケアなど、あるわけもない。


香山リカなる人物を良くは知らないが、テレビで垣間見る限りは、とっても普通のことしか言わない人。という印象である。
 気心の知れた友人との仙台での食事の席で、ついこぼしてしまった。

 「先生、精神科医のできることって何だろう、と考えちゃうんだよね。なんと言うかな、”心のケア”なんて余計なことを考えず、せめて自然な回復力が発揮される邪魔をしないようにする。それが私たちのできることじゃないかな。」
(中略)
 ほら私、1年ちょっと前に父親を失ったでしょう。そのときどう考えてもすでに終末期なのに、高カロリーの点滴を受けたり薬で血圧を上げ下げするのを見て、思わず『もうけっこうです』って言っちゃたんだよね。“退院させます”と申し出て、機械や管をすべて外してもらって、意識のない父を家に連れて帰ってきちゃった。
 父はその後、半日ほどで命を終えたんだけど、その表情は病院のベッドとはまったく違ってどこか満足げだったし、私たち家族も“これで良かったんだよね”といまだに言い続けてる。

 なんというかこの頃、医療のできること、すべきことって『生きる邪魔をしない、死ぬ邪魔をしない』ということなんじゃないかな、って気もするな」
(中略)
 最近、爆発的なベストセラーになっている本に、「大往生したけりゃ医療とかかわるな」(幻冬舎新書)がある。

 著者の中川仁一氏は、老人ホームの付属診療所で働く70代の医師だ。中川氏は多くの高齢者を看取る中で、「もっとも理想的な死に方は、点滴、酸素吸入などの医療行為をいっさい受けない“自然死”だ」と結論づけている。

 中でも発病してからある程度時間がある「がん死」が、「おすすめ」なのだという。
(中略)
 一方「心のケア」に関しては、圧倒的に「まだまだ足りない」「日本は遅れている」という声のほうが強い。

 私もいまだに「アメリカでは精神科にかかるのがステイタスなんでしょう? 日本はまだ抵抗が強くて、困ったものですね」と言われることがある。

 しかし実はこの「ステイタスになる精神科通院」とは、高額な料金を支払って精神分析を受けること。それさえ最近のアメリカでは下火になりつつある。つまり過剰な心のケアのブームは、アメリカでも去りつつあるのである。

 脳の機能障害に由来する精神病などの治療が精神科で必要なのは、当然だ。しかしそうではなくメンタル面の「心のケア」は、そもそも「行えばよい」というわけではない。

 特に東日本大震災のような大災害を受けての「心の傷」、つまりトラウマに対しては、「ケアしすぎ」は効果がないどころか、むしろ悪影響のほうが強い。そのことが、さまざまな事例や研究で明らかにされつつある。

 当事者が「それを望んでいない」場合も、実は多い。

 多くの人の心には、トラウマを乗り越えて行く力が、きちんと備わっているのだ。そこに精神医療やカウンセリングが介入することで、むしろその力が阻害されることもある。

 「心のケア」押し売りが、正常な回復を遅らせる場合がある。あるいは「心のケア」が新たな問題、病を生み出すこともある。

 精神科医としては自己否定になってしまうので言いづらいのだが、私たちはそのことを知っておくべきだ。




ああ、なんか書こうと思ったけど、引用だけで十分だ。

私にも、これから看取らねばならない年寄りが二人が居て、看取る側の私たちも、これから老いて壊れてゆくわけだ。

抗うことは、当たり前の行動かもしれないが、受け入れる心の準備こそが一番必要なのかもしれない。

なんだか、読まなければならない連載がまた始まったようだ。

でふぉると

2012年2月8日 日常
コンピューター用語として「デフォルト」という単語に出会ったので、デフォルトというのは、「規定値」という意味だと思っていた。

ところが国債暴落で国家破綻、債務不履行って時にも「デフォルト」という言葉を使う。

「へー、そんな使い方もあるんだ~。」で、ほおっておいていた。


昨日の日記で、昔の西くんの悪口を書いているときに、「デフォルト」という単語を使った。

悪口で使ったからか、なんだか気になった。

デフォルトってどういう意味なんだろう???


私がこういう事を考えるときは、辞書に書いてない「語感」を問題にしている。
他国語を理解するときに、辞書では決してわからない「語感」というものが立ちはだかる。
そこを理解することを指している。

まっとうなやり方は、英英辞典を引くことなんだが、私の英語は1年漬けの受験英語なので、英英辞典まで手が回らなかった。持っているのは研究社の英語中辞典のみ。
てなことで、私の語感理解は分解でやる。

接頭辞と語幹に分解する。

デフォルト・・・。デとフォルトかなー。

フォルトっていったら、テニスだよなー。
ダブルフォルトで1点失うんだっけ?よーしらんが、サーブミスしたときに審判が「フォールト」って言うよな-。岡ひろみも良く言われてたよなー。

フォールトって失敗って意味かナー。

失敗を「デ」なわけだよなー。

de-って接頭辞はどんな意味か覚えてないナー。
多分、「逆」か「めっちゃ」ってあたりだろうナー。
接頭辞なんて、だいたい「逆」か「もっと」のどっちかなんだよ。
「肯定」と「否定」って言ってもいいけどね。
ちょっと下降気味な語幹もあるよなー。「de-」って。
インクリーズが増加でデクリーズが減少。覚えたなぁ~。
「弱気含み」な語だよね、de-。

「失敗」が「弱気含み」、終わっちゃってるよね。

「でふぉると」
「で」「ふぉると」
「失敗」の「de-」方面・・。


初期値・・・債務不履行・・。


失敗したのを戻すって感じなのかな?

失敗をチャラにして、最初からやり直す。

日本語で言えば・・・「ふりだしに戻す」。こんな感じかぁー。


そんな風に「でふぉると」像をなんとなく理解して、はたと気付いた。

西くんの性格を「デフォルト」なんて言ってすみません。
失敗もしてないし、ふりだしに戻ったわけでもない。
単に「規定値」という意味で使ってたけど、
デフォルトって言う言葉は、失敗を戻すって言う意味なら、大失敗です。


ああ、よその国の言葉なんて不用意に使うもんじゃあねぇなぁ。

失敗失敗、ふりだしに戻ろう。


もう、終わった感があるし、そもそも毎日放送なんて大阪のローカル放送局だし、こんなとこに書いてもただの自己満足なんだけど、日記って本来、自己満足だからいっか。

今日は西くんのパンを食った。
めっちゃ普通。

ちちんぷいぷいのコラボパンはこれまで
「味噌ダレの豆腐ハンバーグ」
「トマトジャム&トマトホイップ」
と、今買わないと二度と食えないものばかりだったのに、
西くんプロデュースのパンは「目玉焼き風ソーセージパン」。
なんて普通なんだ~~!
「夢の新婚朝ごはん」がテーマだそうで…。

こんなに普通の人なのに、なぜ結婚できないんだろう。

まだ、角純一がメインパーソナリティーで、コーナー司会をやってた頃の西くんは確かにちょっとやな奴だった。
どこか心を開いていないというか、他人を疑うのがデフォルトというか。
番組で世界一周をやってから、西くんは変わったと思う。
世界を回って、いろんな人に出会って、しんどい目いっぱいして、何かがふっきれたって感じだった。
角純一が引退して、メインパーソナリティーを西くんが引き継いで、後輩たちが育って、なんだか余裕が見えてきた西くん。

その西くんのプロデュースしたパンが、こんなに普通。

こんな普通の兄ちゃんが、独身をこじらせて、世を拗ねてしまっていた。というのは、西くんの問題ではないのじゃないだろうか。

都会の競争社会の中で、孤独に戦い続けることを強いられる。そういう環境が心をこじらせてゆくのじゃないだろうか。

西くんは世界一周で本当によくなった。
日本社会の狭い基準がすべてになると、本当にしんどいと思う。
広い世界をみると、ま、こんなもんでいいんだ。とどっかで達観する。

「夢の新婚朝ごはん」。
こんなに普通の望みを、普通にプロデュースして、にこにこしていられる、西くん。
彼はもう、大丈夫だと思う。
肩の力が抜けている。
あとは出会いだけだろう。

西くんの、しょーもないパンを食べながら、そんなことを考えた。


ps
画像を貼ろうと思ったが、ヤマザキのhpには見つけられず。
検索したら写真入りでブログ書いてる人が結構いたので、そちらを見てください。
さすがに個人ブログから無断転載はしたくないもので。
正直、玉置浩二なんて肩幅張ったスーツ着てるだけの人と想ってた。

昨年の「堂本兄弟」に出演した玉置浩二を見るまでは。


いきなり新曲を作り出す玉置浩二。
正直、頭は少し、イッちゃってる。
それでも、出てくる音はすごい。

堂本兄弟は、まともなプロの進行が一人もいないまま、いわゆる「あーてぃすと」達が好き勝手に進めているノリだけの番組だ。
友達同士がふざけているだけみたいなところもある。
いわゆる「フリーダム」な世界だ。

だからこそなのか、玉置浩二ははじけていた。

たぶん、なんらかの薬が入っていると思う。

客席で青田さんも見ている。

ちょっといきかけている玉置浩二は、存在そのものが音楽だった。
ただ、「心が動く」事にしか興味がない。
「人の心を動かす」そんな「音」にしか興味がない。
もう、それは、人でなくなる寸前の人だ。
堂本兄弟にたむろしている「あーてぃすと」達も、そんなあたりに暮らしている人間だが、玉置浩二は、もう、人の形をした音楽になりかけている。

こんなひとに、社会生活は無理だ。

それが青田さんなのか誰なのか知らないが、誰かちゃんとわかっている人がずっと支えていないと、この人は、人間でなくなってしまう。生きる音楽でなくなれば、死人になるだけだ。

文化なんてものは、そんなものだ。

けっして、何の役にも立たない。

ただ、感動があるだけだ。


こんな人を生かすには、ただお守りをしていればいいというものではない。
だらけてしまえば、ずっとだらけているだろう。
社会に非適応なものなのだ。

常に、尾根を歩かせ続けなければならない。
ストレスにさらさなければならない。
墜ちたら死ぬ。

ようやく浮き上がってきた玉置浩二。
尾根をどれだけ歩き続けられるのか。
支える人が、どれだけ全力で尾根を作り続けられるのか。

脳みその中身が音楽でいっぱいになればなるほど、
音楽以外の脳みそがどっかへ行ってしまうのだろう。
脳みそのほとんどが音楽になっちゃってる。
そんな希有な人間が、ここにいる。



今日、新年一発目の堂本兄弟を録画で見た。
去年の総集編でトークは省いて音楽だけだった。
そのなかでも、未放送の玉置浩二が歌う「悲しみにさよなら」これはすごかった。
堂本兄弟を支配していた。

もう、幾度歌ったかわからない歌をこれほど音楽として生かし続けられるのだろうか。

こういう人間は、本当に、大事にしないといけないと思う。



ただ、

どうせ、

「旬」でしかないってことは、わかっている。

わかってるつもりだ。

恵方巻

2012年2月3日 日常
今年の恵方は北北西。
ここ数年と方角が変わった。

うちの食卓から北北西を向くと…、ゴミ箱だ。

生ゴミ、プラ、再生。自治体の要請で三つに増えたゴミ箱が鎮座している。

ゴミ箱に向かって黙々と恵方巻を食べる。

丸かぶりは面白がって毎年やっているのだが、ゴミ箱を見ながら飯を食っても、福など来なさそうだ。

黙々と食べながら考える。
せめて視線の先に別のものがあれば、そっちを見る。
例えば…宝船。
宝船のシートを壁に貼っておけば、そっちを見るのでゴミ箱は目に入らないと思う。
向かって来る宝船を見ながら食べる。これはめでたい。
「開運恵方巻。恵方 北北西」などと書いておけば販促ツールにもなる。
豆屋が鬼の面を配るんなら、寿司屋は宝船を配っていいんじゃないの?
来年は、どっかのコンビニが販促ツールとして配ってくれ。
と、思ったところで恵方巻を食べ終えた。

今年の願いは、そんなつまらない願い事をしてしまったようだ。

絶対的な正しさを求めるのは、宗教である。
正義を求めるものには、悪が必要となってしまう。

もちろん、宗教のことはめんどくさい。
どんなにおかしな宗教でも、道に迷い、苦しみ、生きる術が見つからない人間にとって、そのおかしな宗教にすがる事で生きてゆけるのであれば、その宗教を否定するのは良いことではない。
だから、信教の自由は保障されるべきだ。と、私も思う。

てなわけで、「なんか変だな~」と思っていても、それを信じている人に、どう声をかければいいのか困ることがある。

たが、「正しさ」にこだわるのは、どうにもこうにも不自由だ。
杓子定規に生きるのも良い事かもしれないが、窮屈そうだし、「この生き方が正しいから、お前も守れ」なんて言われたら、曖昧なほほえみとともに、ご遠慮させていただく。

私は、ただ、逃げているだけなんだろうか?

そんな事を考えている時に、こんな文章に出会った。
◆尾藤誠司の「ヒポクラテスによろしく」
「平成仮面ライダー」に現代医療者像を思う
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/bito/201201/523321.html
(※無料登録しないと読めないかもしれません)

昭和の仮面ライダーは、善悪がキチンとしていた。
平成ライダーは、善悪そのものが混沌とし、ライダー同士が闘ったりする。
それは時代背景を映し出す鏡で、医療従事者にとっても、「絶対的正しさ」というものが失われているのが現代である。

命を預かる医師にとって、この問題を真剣に考えることは、仮面ライダーよりも普通のサラリーマンよりも切実な問題なのだろう。

そして、行き着いたのが、紹介させていただく「新医師宣言」である。

なんだかグッと来るので、少々長いが、無断引用させていただく。

“もはやヒポクラテスではいられない” 21世紀 新医師宣言プロジェクト

私の新医師宣言
http://www.ishisengen.net/

私は、毎日の仕事の中で、あきらめそうになったり、「まあいいか」と妥協しそうになったり、望ましくない誘惑や圧力に流されそうになったり、患者さんに寄り添う心の余裕がなくなりそうになったりすることを否定しません。 そんなときには、私は以下の宣言文に立ち返ります。そして、医師として患者さんや職場の仲間とともに悩みながら、でもへこたれずに歩んでいくことを誓います。

1.
私は、患者さんについてまだわからなければならないことがあるという前提に立ち、患者さんの気持ちや苦しみを想像し、理解する努力をします。 一方、自分の言葉が意図するとおりに、患者さんに伝わらないことも認識し、お互いが分かり合うための工夫を怠りません。

2.
私は、診療方針を患者さんと決める際に、自分の方針を押し付けすぎていないか、逆に、患者さんに選択を丸投げしていないか振り返り、患者さんとともに確認します。

3.
私は、医療行為が常に患者さんを害しうることを忘れません。もし不幸にして患者さんに重い副作用などが発生した際、患者さん本人や家族の悲しみに対し誠実に向き合い続けます。

4.
私は、不適切もしくは過剰な薬の処方や検査が患者さんに行われていないか常に注意を払います。その状況に気付いた時には、患者さんと相談し、よりよい方法をともに考えます。

5.
私は、患者さんの健康の維持や回復、症状の緩和を支援するとともに、患者さんの生命が終わっていく過程にも積極的にかかわります。

6.
私は、どんな状況にあっても患者さんが希望を持つことを最大限尊重します。医療だけでは患者さんの問題を解決できないような状況のときにも、患者さんの相談者でありつづけます。

7.
私は、自らの心に宿る敵は、自己保身、経営優先の効率主義、外部からの利益供与であることを認識します。そして、ときに自らの医学的好奇心すらも患者さんの利益に反する要因となることを心に留めます。

8.
私は、可能なかぎり患者さんの希望を聴いた上で、自分にできることと、できないことを伝えます。時には、施設内外を問わず自分よりうまくできる人に協力を依頼し連携します。

9.
私は、患者さんや職場の同僚に助けられたとき、「ありがとう」と声に出して言います。また、心の折れそうな同僚が身近にいたら「どうしたの?」と声をかけ、話を聴きます。

10.
私は、文献からは医学に関する知識を、先人からは生きた技術を、同僚や他職種の仲間からは臨床の知恵を、後輩からはあきらめかけていた情熱と気づきを、そして患者さんからは、自分が、医師としてどうあり、何をすべきかということについてのすべてを学び続けます

11.
私は、自分の誤りに気付いてくれる人を大切にし、自分への批判に積極的に耳を傾けます。 同時に、同僚や上司の疑問に感じる態度や行為に対しては、それを指摘するようにします。

12.
私は、医療が公共財であり社会的共通資本であるということを前提に、専門職の観点からは理不尽だと感じる要求に対し、目を背けず向き合います。


                   年      月 氏名


この文章の「患者さん」を「恋人」や「家族」「得意先」など、あなたの大切な人に置き換えながら読んで欲しい。

正義のない時代、何を信じて生きてゆくのか。そんな苦悩のあとが見える。

耳の痛い話も多い。


紹介はするけど、私自身もこれを守って生きようと宣言するものではない。
方針としてはいいけど、「ちょっと、しんどい。」とも思う。

それにしても「医療が公共財であり社会的共通資本である」という意識は、すごいなぁ。
普通の仕事も、実はそういう側面を持っているんだけど、医者を志す人は、やっぱりちょっと違うな、と思う。
ま、金儲けだけで医者になってる人がどれほど多いかは語らないこととするが。


そして、こんな文章で終わっています。
 私たち医療者も、この平成ライダーをちょっと見習ってみると良いのではないでしょうか? 自らの正体がばれてもいいじゃない。力が至らなくて凹んでもいいじゃない。一人で何ともならない時はいろんな人に助けてもらってもいいじゃない。楽しい時は笑っても、泣きたいときは泣いてもいいじゃない。「今、その場で、みんなと、考え続ける医療者」が、平成の時代にはしっくりくると私は考えています。

あー、ちゃんと生きようーーー。

「もしドラ」が流行するなんて、世も末だなと、どこかで思っていた。

マネジメントが出来ない人が多すぎるのは、もっともなんだけど、マネジメントなんて「番頭」じゃん?とどこかで思う。

具体的にそんな事を書いている文章に出会い、やっぱそうだよな。と思う。


◆松岡功のThink Management:マネジメント信仰の落とし穴
http://magredirect.itmedia.co.jp/r/pc/1A/1d3/x/enterprise/articles/1201/26/news017.html
今回は、マネジャーに求められる能力と、その一方でマネジメント信仰がもたらす落とし穴について考えてみたい。

(前略) しかし、最近になってこの論議は違う角度からもとらえる必要があると感じている。そう感じたのは、『マネジメント信仰が会社を滅ぼす』(新潮新書)という衝撃的なタイトルの本を読んだのがきっかけだ。著者である経営コンサルタントの深田和範氏は、この本の中でこう述べている。

 「かつての経営者たちは、世間に広まったマネジメント理論や手法に惑わされず、自分の経験・勘・度胸に基づいて意思決定し、それに従って周囲の者を動かしていた。組織の中心には経営者たちの意志があり、そのもとでビジネスが行われていた」

 「ビジネスをするためには資金と労働力を効果的に使わなければならないから、マネジメントが必要になった。この段階では、あくまでもビジネスが主であって、マネジメントはビジネスを効果的に行うための理論や手法という位置づけにあった」

 「ところが、いつの間にかビジネスとマネジメントの関係が逆転した。いつの時代も、どこの世界にも通用する、絶対的なマネジメント理論・手法が存在し、それに基づいてビジネスが行われるべきだと考えられるようになった。そして、経営者たちの経験・勘・度胸に頼って行われるビジネスは非科学的で、時代遅れのものと考えられるようになった」

 「ところが、ビジネスで成功を収めた人の多くは、成功の秘訣を自分の経験・勘・度胸に頼ってきたことという。私たちはもっとシンプルに、経験・勘・度胸を信じて、自分の意志で動いてもよいのではないか」

 そして深田氏は、ビジネスとマネジメントの関係についてこう強調している。

 「マネジメントには付加価値を生み出す力はない。付加価値を生み出すのは、あくまでもビジネスである。つまり、企業活動における主役は、あくまでもビジネスであって、マネジメントはビジネスを支える黒子である」

 まさしくマネジメント信仰の落とし穴を突いた見解である。マネジャーの皆さんには、ぜひ読んでいただきたい一冊である。




そうなんだよ。
近頃の世の中がおもしろくないのは、わかったことしかやらないって事なんだよね。
誰も、おもしろいからやっちゃえ!ってならない。
アートな力が削がれすぎている。

てなこといって、私も、ゲームは続編しか買ってないけどねー。
楽しい迷惑メールが来たので、無断転載違法コピーです~。



♪千の金に乗って♪

ロトの売り場の前で泣かないでください♪

そこにお金はありません♪

当たってなんかいません♪


< 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 >

 

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

日記内を検索