橋下の扱い方

2012年1月30日 日常
橋下の扱い方
成長戦略・・・。

不連続性への挑戦というのは、やらなきゃならん事ではある。

ただ、こういう威勢のいい人の陥る罠は、いったとおりにならなかった時にどうなるかだ。
たぶん、彼が言っている、ほとんどのことは実現可能だし、やらにゃならんとみんなどこかで思っていても、ついついやってないことだから、やるという言い出しっぺが出てきたら、出来てしまうと思う。

教育はなんとかせにゃならん。
赤字もなんとかせにゃらなん。
二重行政もそうだろう。

ただ、成長戦略というのは、どうだろう。

「デフレの正体」方式で言えば、成長とは団塊の山が通り過ぎていった幻のようなものだ。
そこに巨大な消費の山があり、年齢と共に成長分野が変わっていった。
それだけのことだ。
一人の人間が毎日毎日精一杯働いて、毎年売り上げが増えてゆくなんて、妄想でしかない。精一杯の分だけ儲かる。精一杯は精一杯なんだから、精一杯以上に儲かる方がおかしい。
自分の分相応だけ儲かればそれで良い。それが道理というものだ。

少子化は1973年から始まっている。
平均寿命が伸びたから気付かなかっただけだ。
2005年から実質的な日本人口が減少局面に入っている。
真剣に成長戦略を描くなら少子化対策に本腰を入れ、20年後を待たねばならない。
そして、少子化対策を本気でするなら「なにがなんでも成長」という社会を変えねばならない。

それをほったらかしにして、「成長」を求めるなら、
成長を世界に求めるしかないが、
世界的な人口増加地域は日米欧にはない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Population_growth_rate_world_2005-2010_UN.PNG

橋下氏がどのような成長戦略を描いているのか、読んではいないが、
中国からの観光誘致などを目指しても、たいした期待はできないだろう。
そもそも「成長」という言葉自体に私は疑問を持っている。

アフリカにしか成長がない時代、アジアの都市、大阪の成長を確約するのは、かなり難しいのではないのか?
中国ですら人口増加していない。一人っ子政策で減少局面がもうすぐだ。

需要がないのに成長を求めるとき、無理が生じる。
無理を通せば道理が引っ込んでしまわないのか?

道理を引っ込めてしまうと、侵略が簡単だ。
「成長戦略」に戦争の足音を聞く。
しかし、成長を望んでいるのは他ならぬ国民である。


ほったらかしの事をやり遂げるまでは、橋下で良いだろう。
それ以上をやり始めたら、引きずり下ろさなければならない。

国民は決して、熱狂してはいけない。
成長なんて甘言に惑わされてはいけない。



東京地方で、橋下人気が過熱しているのが不気味だ。
化繊はキライだ。
汗を吸わない気がする。
なぜそう思うのか。親が嫌いだったからだ。

とは言え、時代は40年も過ぎている。
マラソンの時に、高機能な化繊ウエアの素晴らしさに感激し、軍門にはくだっている。
ホームウェアに関しては、ずっと綿のスウェットだったが、冬場は正直、寒い。
ユニクロのフリースは暖かそうだ。
汗を吸わないんじゃないか。と、昔受けた教育と戦いながら、フリースのホームウェアを買ってみる。

暖かい。

こりゃあいい。

フリース上下がイイと言ってたら、妻も買った。
フリースのホームウェア、ワンピース。
ワンピースとパンツがセットだ。

じっと見る。
お尻が隠れる。太ももも隠れる。
じっと見ながら考える。
・・・あれは、暖かいのではないか?

男性用は、もちろんウエストまでしかない。
女性用なら、腰まで暖かい。
部屋でゴロゴロ転がっているときに、ウエストがまくれたりするが、お尻や太ももまで覆ってくれるとそれもなくなりそうだ。
とにかく生地が多い。それだけで暖かそうだ。
化繊のパチパチするのはイヤだが、寒いのはもっと嫌いだ。
あれは、良さそうだ。

婦人用XLを買ってみる。
あまりいい柄がない。
ユニクロは季節が深くなると柄がすぐ切れる。
シンプルな黒はSしか残ってない…。
利益最大化なんて、大嫌いだ。
いつでも好きな柄が選べればなぁ。
なるべく女性っぽくない柄を買う。

着てみる。
サイズはちょうどいい。
うん、いい。
やっぱり、暖かい。

見た目は、こないだ来日したどこやらの国王だと思い込む事にする。
「変態じゃない。寒がりだ。」
と、言い聞かせていたが、着てひと月もしたら、全く違和感を感じなくなった。
慣れとは恐ろしいものだ。

トイレがめんどくさいのと、
宅急便が来たときに慌てるのが、ちょっと問題。

とか言いながら
こないだは、自販機までそのまま出てしまった。
やばい。
変わり者のおっさんが出来上がりつつある。


ずっと暇だったのに、ここにきてどういうこと?

ちょっとしたレイアウトの話は聞いてたから、いいとして、
新しい屋外看板の話、
ずっと更新してなかったホームページの改訂、
そして、今日聞いて今日提出の展示端末の企画書。
それらが、全部レイアウトものの提出日に重なる。

おまけに家族がインフルエンザ。

もう知らん。俺もインフルエンザにかかっていいや。
できるものから、全部、ちぎっては投げてやる!


じゅんさんが結構役に立ってくれる。ありがたい。


新年早々、大風呂敷な妄想をした。つくづく、めでたい頭である。


不景気である。

理由はわかっている。
情報革命によりホワイトカラーの労働力が不要になったのである。

産業革命で何が起こったのか?
第二次産業で工場労働者が不要になり、街に浮浪者があふれかえった。

情報革命で、ホワイトカラーが不要になり、リストラの嵐だ。

情報革命が最初に打撃を与えたのは、第二次産業である。
生産計画、販売計画、市場動向、これまでホワイトカラーが、半ば手工業的に調整してきた作業は、情報革命により人間不要でより正確な調整が可能となった。
第二次産業は、究極形態に近づきつつある。
ロボット工学が発展し、無人工場化すれば究極である。
それ以上の発展は、難しいのではないか?


産業革命の労働力の受け皿として、人々が仕方なく選んだ第三次産業は、現在、大きな力となっている。
第三次産業の定義は、「第一次、二次産業以外の産業」だそうだ。
なんとも、おおざっぱだ。

これまで手工業のように運営されてきた第三次産業は、これから情報革命により、大きな変化を受けるだろう。
金融業界では、情報分析から運用まで自動化されるだろう。世界中の金融情報を分析し、市場予測をするコンピュータはすでに運用を始め、効果を上げ始めている。そのコンピュータを持っている人間だけが儲かる仕組みだ。
金融業界は、戸別訪問する営業マンだけが残るに違いない。
流通業界は画一化され、店舗から人が消えてゆく。店舗すら不要になるかもしれない。

情報革命により、これから第三次産業は、大量のリストラを行い、
合理化が推し進められ、花形産業として、どんどんのし上がってゆくだろう。
第二次産業がたどってきたように、様々な「キカイ」が産み出され、「カイゼン」は究極まで推し進められるだろう。
利益効率はどんどん良くなり、労働者はどんどん減るだろう。
これからしばらく、花形を務める第三次産業も無人工場のようになるのは、間違いない。


人は、何をすればよいのか?

そして、妄想した。

いま、必要なのは、「第四次産業」だと。


このワードは、政治家が発するのが良いと思う。

いまは金にならないかもしれないが、雨後の竹の子のように大量の起業家が現れ、さまざまな分野の仕事を開拓しなければならない。
政府は、第四次産業の開拓に真っ先に挑んでいかねばならない。
そして、起業家を応援しなければならない。

第四次産業とは何か。それはまだわからない。

一ついえるのは、「コンピュータにはできない仕事」でないと意味がない。

感動産業、思いやり産業、笑顔産業、そんなようなものではないだろうか?
美術品であったり、介護産業だったり、交流産業だったりするのだろうか。


逆にコンピューターの中のバーチャルな世界を構築する作業かもしれない。
コンピュータの中に世界が作られる。
犯罪があるなら、警察は必要だ。なら、防犯会社も必要だろう。探偵も必要になる。
ウイルスがあるなら、医者が必要だ。健康管理の人材も必要だろう。
出会いがあり、別れがある。癒しも必要であり、人生相談も必要だろう。

誰かのために何かの仕事をすれば、報酬は必要だ。

バーチャルとリアルが結びつき、大量の財を生み出す。まだまだ、コンピュータ社会は、始まったばかりだ。


ここで大切なのは、バーチャルであれリアルであれ、第四次産業に必要なのは、「コンピュータプログラムで代替できない」という要件だ。

バーチャル世界であっても、都度必要な人間がやらないといけない作業。
そういうものが、第四次産業の必須要件となるだろう。


「第四次産業の発見」

これこそ、政府が、今、やるべきことだと思う。

野田首相。こんな事言う勇気あるかね?

宇宙人鳩山なら言いそうだな。



ま、実際は、リストラされたお父ちゃんたちが、必死になって見つけるんだろうけどね。


365.2422日

2012年1月17日 日常
一年は、365.2422日だそうだ。


┌───────────────━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
└ 曜日が変わらない「合理的な新しい暦」
  < http://go.wired.jp/zn2xJ5 >

 ジョンズ・ホプキンス大学の天文学者が、現在のグレゴリオ暦に代わるものとして、うるう年が不要で毎年同じ日が同じ曜日になり、経済活動にも有益という合理的な新しい暦を提案している。

WIRED.jp



計算したことがなかった。

一年365日を7日で割ると、52週と1日なんだね。
だから大体1日ずつ曜日がずれるのか-。そっちは気付いていたんだけどなぁ。

この人は、一年を364日にしてしまえ。という発想。
すると、きっちり7で割り切れるので、毎年曜日が変わらなくなる。
30日、30日、31日を4回繰り返すと364日になる。
あまりはどうするのか?
数年ごとに、おまけの一週間を追加する。
閏年も、この時に吸収してしまうので7年かからない。
5~6年に一回、おまけの一週間が増える年がくる。

すると、毎年、同じ日は同じ曜日でずっといける。
企業や学校などで、生産計画を立てるのが簡単になる。のだそうだ。



なんだか、画一的で、やだな。とも感じる。

毎日、誕生日が同じ曜日だったら、日曜日がいい?平日の方が祝ってもらえる?

ま、どちらにせよ、春分の日は、毎年異なるってのは同じだね。
やっと政府も発言しましたね。
電事連や立地県では猛反発です。

しかし、「原発40年廃炉」を法制化しない限り、原発再稼働はあり得ません。

ずっと、節電でやっていくのか。
ずっと、火力でCO2を出し続けるのか。
いまある原発を全部廃炉にしたいのか。

原発再稼働は、当面、他の発電方法が実用化されるまで、仕方ない作業です。

しかし、再稼働するのなら、「原発40年廃炉」の確約は必須です。
国民は、断固として、再稼働に反対するでしょう。

私も黙っていません。

美浜は廃炉。高浜も廃炉。科学的理由はありません。頑固な意思です。


うーん、ありそうな話だ。
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たいしたことは書いてないので登録してまで読むこともないかもしれません。


□■ 「キレて」しまう自分をコントロールするには ■□

 「この正月、わが家の娘は、満3歳の誕生日を迎えました。生後の華奢な体つ
きからは想像もできないほど、一人前の立派な体格になり、精神的にも大きな成
長を遂げました」。こう語るのは、子育て中の女性医師、引地悠氏です。

 3年間育児に苦労した引地氏ですが、一番大変だったのは、自分のイライラを
抑えられず、常に自分自身と「ガチンコ勝負」をしてきたことだそうです。「ま
だ物言えぬ子供が泣くのは、当たり前です。そのことを頭では分かっていても、
実際に目の前でわが子が泣き叫ぶと、『キレて』しまう自分をコントロールでき
ず、本当に悩みました」と打ち明けます。

 そんな悩みの突破口となったのは、引地氏の母を交え、親子3代で外食をしていたときの出来事でした。母の一言をきっかけに、幼少の頃の自分と母の関係を思
い起こし、今の自分と娘の姿に重ね合わせることで、解決の糸口を見いだします。

◆引地悠の「仕事と育児のベストバランスを求めて」
「キレて」しまう自分をコントロールするには
http://cmad.nikkeibp.co.jp/?4_139157_70887_5




ネタをバラしてしまうと、子供が泣き出したとき、母親がきつく娘をしかり始めた。ってこと。
「ああ、自分がキレてしまうのは、母親が自分にそうしてきたからか」と直感的に理解してしまうのです。
この連鎖を、自分が止めるのか、自分には止められないのか。
暴力の連鎖は止められるのか?って話になります。


ジェットコースターが好きか嫌いかって、幼少時の「たかいたかい」が怖かったかどうかじゃないのか?なんて事を考えました。


「かけ算の順序」で検索すれば、ネット上に山ほど出るので、私がまとめる必要も無いが、書いちゃったものは仕方ないので、ちょっとだけまとめ。


どうも、遠山啓というすでに亡くなった方が端緒のようだ。

かけ算には順序がある派の「わだいのたけひこのざっき」
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20111219/1324225396
を斜め読みしていると、遠山氏が区別すべきだと言ってる中心人物のように感じた。もちろん斜め読みなのでtakehiko氏はそんなこと言ってないのかもしれない。とにかく、この人の文章は読みにくい。


誰じゃい?遠山啓?

で、調べていると、
『さつきのブログ「科学と認識」』に出会う。
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/33805606.html

この人は、遠山啓はそんな事言ってない。という論点でこの話の根幹をかみ砕いて説明してくれる。


要するに、小学2年生に、「かけ算の本質」をぱっとわかってもらうために、いかに遠山が苦労していたのかということがよくわかる。
うーん、この人は、たしかな教育者だ。と、さつきさん経由ではあるが、遠山氏を見直した。

その「本質をぱっとわかる」に至るための方便として、「かける数」と「かけられる数」という言葉を作った。

それが、遠山の死んだ今、一人歩きして、「式の順番を間違うと間違いとする」となってしまっている。

大事なのは、小学2年生が「かけ算をわかる」ことである。
5を3回足しても、3を5回足しても同じなんだ。へぇ~。である。
●●●●●
●●●●●
●●●●● と抽象的に理解することである。


そう考えると自明の理。
その考えに至るために、「文章の方が良く分かる子」には、「かける数」
「かけられる数」で教えればいいし、「絵でわかる子」には、上の図を見せればよい。

絵でわかる子に、かけ算の順序を求め、間違いとする教師は確実に教育を失敗している。
教育方法論を方法論として理解せず、教育方法論をそのまま子供に教えようとしているのだ。それでは、算数を教えることにならない。


官吏が管理する教育ムラは、子供達より自分たちで手一杯なのではないか?
正しい方法論を追い求め、方法論を教えるための方法論を産みだしている。
自家中毒を起こしかけている教育界に手を突っ込む勇気ある人はいないのか?

そんなことを考えた。











追記

どうやら、教育ムラでは、横書き文書では「、」を「,」と書く。という諒解があるらしい。古い通達が根拠らしい。
それを知っている人はエライ、知らないのはバカという捉え方か?
知っていてそれに従うのは従順、従わないのは、危険と捉えるのか?
「,」で文章を書いている人を見たら、要注意なのかもしれない。

「文化の伝承」と「公平な教育」と「時代に即した正しさ」。バランスの取り方は難しいとは思うが、いまの教育は、確実にどこかバランスが崩れている。
たぶん、「時代に即した」をどの程度受け入れていくかの判断基準だろう。
誰もそれを決めない。そこが一番の問題点だと思う。



友人が教職採用試験を受けても通らなかったのは、試験の際に「,」で書かなかったせいだろうか?
いや、たぶん、私の友人があまりにアホだからだな。あはは。

かける数?

2012年1月15日 日常
itメディアに変な記事が載っていた。
きっかけはメルマガの下記の文章


● オルタナティブ・ブログ運営事務局のオススメエントリー ●      

PowetPointでよく見る彼らの見つけ方:一般システムエンジニアの刻苦勉励
http://magredirect.itmedia.co.jp/r/pc/1E/1ca/x/magic/2011/12/6886-2d5b.html

パワポの千両役者、もしくは名バイプレーヤー「まる夫くん(命名:わたし)」の見つけ方をブロガー山口さんが楽しく指南してくれました。詰め合わせ、ほしいです。


パワーポイントのちょっとしたヒントか~、ながめてもいいかな?
と、これをクリックしたはずなのに、出てきたのが、これ。

「6×8は正解でも8×6はバッテン?あるいは算数のガラパゴス性」

単なるリンクミスだと思うのだが、出てきた内容が意味不明。

掛け算の式を逆に書くと間違いなのだそうだ。
へぇ~。
かける数とかけられる数をキチンと扱うのが大事なのだそうだ。
間違うと小学校のテストで×をつけられるそうだ。

なんじゃ、こりゃ?と思ってみると、コメント数が半端無い。

ちょっと、恐ろしい。

なんだか恐ろしく不毛な激論が見知らぬ所で闘われているようだ。


私としては、こちらを取りたい。
http://suugaku.at.webry.info/201102/article_1.html

数学とは物事を単純化・抽象化してゆく力だと思う。
せっかくラクチンにしたものを複雑化して仕事を増やすのには疑問を感じます。


反論としては、ここがいいのかな?
http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20111219/1324225396
なんだか、わけがわかったようなわからんような事を書いています。



全編通じて「宗教だったら、わかりあえない」という一言が印象的です。

掛け算一つで、こんなにみんないろいろな受け取り方で理解をしていたんですねー。しらんかったー。

子供達には、いろんな受け取り方があるのに、「これは間違い」というのは、どうなんだろう?教育の本質とは何なのか。わからんようになりました。


ま、私自身、そこが「わからん」と思ったから、一番興味のあった教育関係に進路を取らなかったというのは、あります。
本質をキチンと捉え、子供の将来を見据え、今できる最善の方策で教える。
それが教育者のやるべき事で、そんな大それた事は、私にはとても出来ない。と感じたのです。

いまの教育者達は、そんなこと、考えているんでしょうか?
教育指導要領にがんじがらめなんだろうなー。
ジュースから発電
昨年の記事だが、ソニーがジュースから発電するシート型バイオ電池を試作したそうだ。

ジュースを垂らすと、電子オルゴールが鳴る。

おもしろいね。

携帯電話の電池が切れたから、ジュースを垂らす。

おもしろい絵だね。


記事に書かれてた「ごはん1杯分には、単三電池96本分の糖が…」というのに、目をシロクロ。

携帯電話の裏ブタをぱかっと開けて、ご飯を詰め込んでいる絵を想像する。

ふと、気付く。

やはり・・、うんこもするんだろうか・・。


PlayStation Vita

2011年12月30日 日常
買う気はなかったのに回って来た。
押し付けられたというべきか。
ま、ありがたい。
ありがたいのだが、ソフトがない。
やりたいソフトがない。

機械の印象は、大きくて、軽い。
回転ドライブが無くなったのが大きいのだろう。
アクセスも早い。
プレイステーション発売の時は「これからはディスクだ。出版と同じになる」などと言ってたが、携帯機でドライブは間違いだというのがはっきりした。

しかし、ゲームカードを入れる時に、蓋が付いているのは解せない。
なぜ必要なのか?フタ。



5万円

2011年12月28日 日常
サイネージのアイデアを求められた。
コンテンツ不足なのだろう。
こんなのは、コンテンツホルダーが映像商品を売ればいい。
私にアイデアを求めるのが間違いだ。
単純に「仕入れ」ルートの問題だ。

とはいえ、依頼はこなさなにゃならぬ。
イベント的コンテンツ作成案というか、場の醸成的な案を2案ほどこちょこちょと書いてペロッと出してお茶を濁しておいた。

こんなのは仕事には発展しない。
仕事にならなきゃ企画料なんてもらえない。
そう思っていたのに、払ってくれるという。
たかだか5万円といえど、なんだか申し訳ない。

現場で受けたのかな?

ま、いいや。レンタルビデオが200本ぐらい観れる計算だ。
ありがたい。


懐かしい人たちの懐かしい舞台。

第三舞台を見て、芝居を辞めようと思った。
この人たちがやってくれるから、私が芝居を演ることはない。
そう思った。
ある意味、私がやりたいことが、すでにそこにあった。

「もう一度、同じことを」
そんなセリフは私には出てこない。

その第三舞台が10年間の休止を越えて解散公演だ。

10年の間に、鴻上尚史は本物になった。
役者達はアマチュアのままだ。

突き刺さる台詞。ハッとする演出。俺でもやれそうな演技。
これが演劇の現実だ。

また、涙してしまった。


春咲きのカロライナジャスミンがつぼみをつけ、花が咲いた。

なんだ?これは?
と思っていたら、コーナンでも花の付いたカロライナジャスミンが売られていた。
各地でも同様の状況がおきているのだろうか。

ここんとこ、どんどん寒くなり、カロライナジャスミンは紅葉をはじめた。
このあと、葉が落ちるはずだ。

大量のつぼみは、つぼみのままだ。
数個咲いた花は、花をつけたままだ。

そのまま、数週間が過ぎている。

なんかへんな、気候だ。


ポケモン+ノブナガの野望
は!?
という驚きのあと、よく考える。
信長の野望というゲームは史実とは異なるフィクションだ。
全国の武将と闘い、勝つと武将を部下にできる。
ポケモンは各地でポケモンと闘い、勝つとポケモンゲットだぜ。
うん、似ている。
目的は、すべてのリーダーを倒し、全国制覇。
うん、似てる。

これまで無名のジムリーダーが、実在の武将というキャラをまとえば、より厚みのある物語になれる。

ひょっとしたら、面白い作品に仕上がっているかも。


しかし、ソニーのPS Vitaの発売日に、この発表ぶつけてくるとは、任天堂もいい根性だぜ。
ところがこのソフトがDS用ってのが、3DS苦境を物語っていたりもする。
二人とも、モバゲーに負けるなよー。

悪態は、鎮痛剤?

2011年12月14日 日常
■悪態の効用。ふだん罵らない人はいざというとき罵ると忍耐力が増す
http://www.gizmodo.jp/2011/12/swearing-makes-you-fking-feel-better.html

ほほう。
つま先をぶつけたとき、「クソ!」とか悪態つくと鎮痛効果があるんだと。

脳が闘争モードになり、痛みを忘れるんだと。

ほほう。

んでもって、
普段から悪態ばっかりついていると、いざというとき、鎮痛効果が減じてしまうんだと。

ほほう。

心が痛くても、悪態をつくんだな。

悪態をつけばつくほど、もっと悪態をつかないと耐えられなくなるんだな。



なにがそんなに痛いんだ。

「正しい」とは、「好き」でしかない場合が多い。

それが感情論である限り、結論はない。


誰かの「正しい」を誰かが「イヤ」と感じたとき、「正しい」は本当に正しいのか?


「正しい」の反意語は「間違い」である。
「好き」の反意語は「キライ」である。



「正しくて嫌いなもの」をどのように扱うべきか?

A氏にとって「正しく」て、B子にとって「キライ」なものを、
A氏はどう扱うのか?



「間違い」は対象を全否定しているが、「キライ」の場合、自分はイヤだが、対象を否定はしていない。
「正しい」には、「正しくない」ものへの全否定が内在している。
「キライ」の方が、実はやさしい。やさしいが、がんこだ。


そもそも、本当に、正しいのか?

誰が、「正しい」と決めたのか?

この世の中に、「正しい」を決められる人間なんているのか?

いるとしたら、ただの教祖ではないのか?



宗教かぁ・・・。めんどくさ・・・・。

立川談春独演会

2011年12月11日 日常
森ノ宮ピロティホール。3時開演。

長いまくらで、本日は3本演るので覚悟のほどを、と宣言。
震災で慰問に行った話。
人の思い込み。正しいと思っていても、何が本当に正しいのかという迷い。
年末の落語会は、今年をふり返るという意味では、3本でも足りないのだそうだ。
充分に客席が温まった途端に「人情八百屋」。

ふとかけた情けが仇になり、夫婦心中。残った子供を育てる話。
会場で買ったハンカチ、フル活用させてもらいました。
震災慰問でであった子供達への思いが溢れてました。

続いて、「禁酒番屋」。
無茶な禁酒の御触れに、あの手この手で酒を届けようとする爆笑話。
政治の無策や新自由主義の締め付け。
それをすべて笑い飛ばしてやろうという意気込み、いいですねぇ。

中入り後は「鼠穴」。
兄から譲り受けた田畠を博打ですった弟が、江戸で成功した兄を頼るが、邪険にあしらわれ一念発起、大店を作るが兄に借りた三文を叩き返しに行くと、という人情話。
本当に人のためになる行動とは何なのだろう?
叱るのは簡単だ。甘やかすのも簡単だ。
改心させる事などできるのか?
人間が取るべき行動とはどうあるべきなのか?
改心したとて、運命には逆らえない。
今、談春が一番テーマにしているのは、この辺なのだろう。
夢オチってのは別にすれば、いい話だ。

「談志が大阪でこの話を演った時、『楽屋までわざわざ来て、良かったといわれたんだよ』と師匠が言ってたなんてはなしをすれば、師匠想いのいい弟子だなんて評価もしてもらえるとおもいます。」なんて言っちゃうあたりが、「この野郎!」って微笑んじゃうんですよね。

来年一年、毎月大阪神戸で独演会だそうで、今、一年分まとめ買いするといい席なんだろうな。とは思うけど、約5万円はちょっと躊躇しますよね。


あー、面白かった。
これで3800円は安いわ。



感情論の時代

2011年12月11日 日常
大事なことが書かれていると思うが、自分の中でこなれてないので、とりあえず、無断転載の備忘録。

http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/title3_1.html


■ 『from 911/USAレポート』第544回
  「感情論の時代にどう対処すべきか?」

  ■ 冷泉彰彦:作家(米国ニュージャージー州在住)


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■ 『from 911/USAレポート』            第544回
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 感情論の時代、2011年の日本を一言で総括するならば、そう言うことになるのではと思います。震災直後の自粛、放射性物質の危険性論議、TPPと農業開放の問題、そして大阪の乱と、多くの社会的な現象がどう考えても合理的な思考というよりも、直感的あるいは情緒的な感情論によって形成された世論が大きな力をもった、そんな一年であるように思います。

 では、そうした感情論は否定されるべきなのでしょうか? 私はそれは不可能だと思います。いかに非合理な感情で動いた結果であっても、形成された世論を否定していては社会の意志決定は不可能だからです。感情に流された世論を抑えるために、強権を発動すべきだという考えもあるかもしれませんが、その強権の根拠は結局は民意だということを考えると不可能性は明らかです。

 一方で、世論の持つ感情の力というのは巨大なものなので、それを受け止めていくしかない、いかに非合理で一貫性に欠けるものであっても、世論が動いたのだからそれに乗るだけだという立場もあります。ですが、世論の結果であっても、政権の行動が具体化してみると、余りにも極端であったり合理性や一貫性を欠くものであれば「目に見える形」となった瞬間に、その判断への支持は弱まり、欠陥が明白であれば、その責任は政権に向けられることになります。

 間違っているのは分かっているが、お前らがやりたいというからやったまでだ、という居直りは不可能です。こうした世論の気まぐれにどう対処して行くのかという技術も、現代の政治家には必要な要件となっています。

 結果的に間接民主制というのは「世論と現実、実現可能性」のギャップ、そして「過去の世論と現在の世論、未来の世論」のギャップを埋めて行く、その中で、実は実現可能性のある選択肢がどんどん狭まって行く時代の中で、その時々の選択、その時々のコミュニケーションにおいて、どう最善手に近い判断を続けることができるかにかかっているのかもしれません。

 では、具体的に「感情論」に対してはどんな対処が必要なのでしょうか?

 第一は、感情論が肥大化するときには大きな理由があるということです。感情論がバカバカしく見えたり、非現実的に見えるようになると、とかく軽視しがちですが、例えば今年の震災被害、原発事故に関しては余りにも巨大な事件であり、被災地であろうと、離れたところにいようと、人間の「危険回避本能」を大きく揺さぶったわけです。そこに感情論の原点があることは忘れてはならないと思います。

 第二は、感情論を認めることです。目に見えない放射線に恐怖を感じる、農業衰退による生態系やライフスタイルの変更への不安を感じる、年金の減額や増税に不安を抱く・・・こうした反応は人間の生存本能から来ています。自身の生存が脅かされるのではないか、自分が食べている食品がもう供給されなくなるのではないかといった不安は本能的・直感的な反応としてどうしようもない「自然」なものだとして、まず認めるしかないように思うのです。

 子育て中の母性が非科学的な感情論を暴走させがちだという批判がありますが、これも次世代の生殖と育成という行為は、ほ乳類特有の本能的な「保護行動」が人間にはデフォルトの行動パターンとして埋め込まれているわけです。まず、それを認めるということからしか、何事も始まらないように思うのです。

 第三には、感情論を「正論」で押しつぶさないことです。感情論というのは、多くの場合「不安感情」が理由です。その不安感情を除去できない一方で、その「不安感情が間違っている」という正論を突きつけても、人間の防御本能に基づく直感は解除できないからです。

 更にいえば、感情論に対して「正論」をぶつけるということは、不安感情を解除するどころか、「自分たちを一段低い存在として見ている」とか「自分の不安の元凶を改善する方向に敵対してきた」という印象を与える場合もあるわけです。言っている方は「自然放射線以下のレベル」だとか「輸出が下がれば経済が伸び悩む」という「正論」を主張していると更に語気を強めることになるのですが、相手は全く違う観点で見ているのですから議論は喧嘩腰になってしまうわけです。

 思えば、感情論は21世紀の社会にはあちらこちらで、政策決定に重要な要素となってきています。それは、20世紀の場合は冷戦というイデオロギー対立があり、その原則から導かれる形での選択肢があったわけです。実はその選択肢自体は、これはこれで決して生産的なものではなかったのですが、むき出しの感情論と実現可能性が衝突する現在とは議論の様相が異なったからです。

 震災後の日本だけでなく、財政危機の続く欧州での議論、テロ被災を受けたアメリカの攻撃性、各国での「ネット」によるナショナリズムの拡大、そうした現象ある共通性、同時代性というのはやはり21世紀ならではの現象だと思います。

 では、こうした感情論の暴走というのは、危険な兆候なのでしょうか? 暴走した感情論が例えば独裁政権や、他国への侵略政策、あるいは大量殺戮などといった20世紀に繰り返された悲劇、破綻へと発展して行く可能性を警戒しなくてはならないのでしょうか?

 私はその可能性は低いし、また余計な警戒をすることは事態を悪化させるだけと考えます。現代の世論が感情に走るのは、例えば19世紀から20世紀の初頭にかけて、ファシズムが発生したり、性悪説を抱えた社会主義が独裁化した時代とは構造が違うように思うのです。例えば、政治経済文化に関する情報の量が違います。また他国に関する、世界全体に関する情報量も違います。その情報の伝播スピードも全く違いますし、価値判断を含む二次情報の流通も質量が違います。

 仮に世論が暴走し、一部の政治勢力がそれを暴力的な権力に転化しようとしても、当時のように持続性を持たせることは難しいように思うからです。勿論、ジャーナリズムの貧困、とりわけ感情論に乗っかって一儲けを企むグループは存在しますが、それも世論の全てを引きずり回すことはできないと思います。何よりも、19世紀や20世紀初頭と比べ、社会に流通する二次情報、三次情報が多様化し、価値判断を加える場合も、前提となる価値観が相対化されているという点で、時代背景が決定的に異なるように思うのです。

 勿論、現在は理想的な時代ではありません。閉塞感は高いですし、崩壊の予兆のようなものも時代の雰囲気には確実にあります。その一方で、実現可能な政策と、世論の感情の乖離は激しくなっているとも言えるでしょう。ですが、私は、ここまで困難な状況であるにも関わらず、とりあえずヨーロッパも日本も平静であること、その方を評価したいと思います。

 その上で、もう少し情報流通の質量スピードを向上することができれば、実現可能な政策論と、判断の根拠となる体系や直感の間を自由に行き来できる言論が可能になれば、社会には希望が出てくるのではないでしょうか。

 例えば、中国社会の成熟ということにも、こうした思考方法からアプローチすることで何か道筋が見えてくるように思うのです。軍事的な均衡は当分の間維持することは必要ですが、いつまでもケンカ腰のイデオロギー対立として「民主化」を迫ってみてもどうにもならないと思います。

 中国もやがて高齢化と社会の成熟を大変なスピードで経験することになります。繁栄を維持したいという世論の感情と、実現可能な政策の乖離ということでも、急速に問題が深まるのは避けられません。その際に、多様な選択肢を提示しつつ、世論の感情論と、実現可能性の間を粘り強いコミュニケーションで埋めて行く、そのための多党制なり、報道の自発性というのは、イデオロギーではなく、社会の安定を保つためのテクニカルな手法として、統治の基本姿勢として必要になってくるように思います。
そうした道筋を描けるかどうか、来年に予想される政権の世代交代に注目しなくてはなりません。

 年の瀬にあたり抽象論めきますが、今年という年はそうした政治の成熟の方向性が問われ始めた年、世論の持つ感情と政策の実現可能性の乖離を社会が意識し始めた年として、位置づけたいように思うのです。

 震災と原発事故により、生存することそのものへの不安を抱え込んだ日本、財政破綻に対して実現可能な相互扶助と共同体の維持へ向けて大変な政治プロセスを踏んだ欧州、そのどちらにとっても、経験自体は大変な痛苦であったわけですが、人類のかつて経験しなかったような忍耐と、知的な作業を貫いたのは間違いないように思います。

 そう思うと、テロ被災という事件に対する反応として、アフガンとイラクという他国を崩壊させ、膨大な人命を奪い国富を蕩尽した挙げ句に、その記憶を薄れさせつつあるアメリカの現状には何とも言えない空虚感を感じざるを得ません。

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冷泉彰彦(れいぜい・あきひこ)
作家(米国ニュージャージー州在住)
1959年東京生まれ。東京大学文学部、コロンビア大学大学院(修士)卒。
著書に『911 セプテンバーイレブンス』『メジャーリーグの愛され方』『「関係の空気」「場の空気」』『アメリカは本当に「貧困大国」なのか?』。訳書に『チャター』がある。 またNHKBS『クールジャパン』の準レギュラーを務める。

ディベートは論戦とも訳される。

言い負かす。
すでに勝ち負けがある。
勝ち負けには恨みが残る。


日常には、戦争は不要だ。
開戦せずに解決させるのが、有能な外交担当官というものだ。


日常でのディベートは不毛な結果しか産まない。

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