dependence
2011年11月12日 日常依存と依存症は違う。
何が違うか。誰でもわかる。病気か否かだ。
病気は医者しか診断出来ないし、医師免許を持たずに、診断や治療を行うのは違法行為だ。いや、例え医師であったとしても、本人の同意なく治療を行ったら、傷害罪で起訴される。病気の扱いは慎重にしなければならない。
ましてや「依存症」となると精神疾患に属し、医師免許も持たずに「あなたは依存症だ」などと言おうものなら、名誉毀損で訴えられてしかるべきである。
ま、こんな極端な例を力説しても仕方ない。
WHOで依存が定義されて以来、嗜好、嗜癖という言葉が衰退し、依存の言語力が増してきた。
依存。何だかみょうな単語だ。
こういう単語は気をつけた方がいい。
誰かが作って、こなれてない単語だと感じる。
元々の英語を調べる。
「dependence」とでた。「デペンデンス」。
映画「インデペンデンス・デイ」で宇宙人に勝利した米大統領が「今日が私たちのインデペンデンス・デイ(独立記念日)だ!」と叫んでいたのを思い出す。
「インデペンデンス」の頭に付いてるインは、否定形の接頭辞インであり、デペンデンスの逆という成り立ちの単語だ。
日本では、「依存」よりも「独立」の方がメジャーと感じるのではないか。
しかし、英語では、「独立」は「依存の逆」であり、「依存」よりも後に出来た単語だ。そういう常識を英語圏の人間なら口に出すたびに、常に感じているはずだ。
その語感を無理矢理日本語化すれば「独立」は「非依存」である。
英語の語感的には「独立」などという単語はなく「非依存」という単語しかない。
依存の方がメジャー。なんだか納得しにくい。
で、その「依存」の元となる単語「dependence」を調べると、「1. 依存 2. 信頼」とある。信頼と依存は同じ意味だったのだ。英語で依存は決して悪い単語ではない。幼児が親に依存するのは当たり前で、甘い香りのある単語である。恥ずかしくてお父さんの足に掴まりモジモジしている。というのが「depend」の語感だと思う。「甘え」か、いや、「頼る」に近いのではないか?
そう納得し、もう一度、無理矢理日本語化すれば、
「依存と依存症」は、「信頼と信頼症」と訳せる。
「信頼」するばかりでなにもせず、本人や周囲に迷惑をかけるようになると「信頼症」と名付けて病気とする。
うん、これなら納得できる。
何事も、やり過ぎると病気だ。
どこからが「過ぎ」なのかは、かなり難しい問題になるのだろう。
英語の輸入は、かくの如く難しい。
訳語だけで理解するととんでもない感覚の違いを生み出す。
受験の時の遠い記憶ではdependの構成要素pendは、もたれる、だったように思う。
人と人とが持たれあって、人という漢字は出来ている。というのに似ている。
イギリスとの信頼関係が潰れ、傷ついたアメリカは「非信頼戦争」を起こした。
そういう風に翻訳すると祭り上げられている「独立戦争」も捉え方が変わる。
若者が大人になる時、必要な過程だとは思うが、悲しい出来事だと思えてくる。
お互いを信頼し、頼れるところは、頼りにする。
頼られたら、出来る限り期待に応える。
そんな関係を一人でも多くの人と築ける事が、幸せだと思う。
【追記】
書いた後で調べてみると、pendは、ペンダントのpendであり、「ぶら下がる」でした。なんかちょっと、あまりに違うから、本文直すのめんどくさそうのでやめておきます。あー、イイカゲンなオレー。(謝)
何が違うか。誰でもわかる。病気か否かだ。
病気は医者しか診断出来ないし、医師免許を持たずに、診断や治療を行うのは違法行為だ。いや、例え医師であったとしても、本人の同意なく治療を行ったら、傷害罪で起訴される。病気の扱いは慎重にしなければならない。
ましてや「依存症」となると精神疾患に属し、医師免許も持たずに「あなたは依存症だ」などと言おうものなら、名誉毀損で訴えられてしかるべきである。
ま、こんな極端な例を力説しても仕方ない。
WHOで依存が定義されて以来、嗜好、嗜癖という言葉が衰退し、依存の言語力が増してきた。
依存。何だかみょうな単語だ。
こういう単語は気をつけた方がいい。
誰かが作って、こなれてない単語だと感じる。
元々の英語を調べる。
「dependence」とでた。「デペンデンス」。
映画「インデペンデンス・デイ」で宇宙人に勝利した米大統領が「今日が私たちのインデペンデンス・デイ(独立記念日)だ!」と叫んでいたのを思い出す。
「インデペンデンス」の頭に付いてるインは、否定形の接頭辞インであり、デペンデンスの逆という成り立ちの単語だ。
日本では、「依存」よりも「独立」の方がメジャーと感じるのではないか。
しかし、英語では、「独立」は「依存の逆」であり、「依存」よりも後に出来た単語だ。そういう常識を英語圏の人間なら口に出すたびに、常に感じているはずだ。
その語感を無理矢理日本語化すれば「独立」は「非依存」である。
英語の語感的には「独立」などという単語はなく「非依存」という単語しかない。
依存の方がメジャー。なんだか納得しにくい。
で、その「依存」の元となる単語「dependence」を調べると、「1. 依存 2. 信頼」とある。信頼と依存は同じ意味だったのだ。英語で依存は決して悪い単語ではない。幼児が親に依存するのは当たり前で、甘い香りのある単語である。恥ずかしくてお父さんの足に掴まりモジモジしている。というのが「depend」の語感だと思う。「甘え」か、いや、「頼る」に近いのではないか?
そう納得し、もう一度、無理矢理日本語化すれば、
「依存と依存症」は、「信頼と信頼症」と訳せる。
「信頼」するばかりでなにもせず、本人や周囲に迷惑をかけるようになると「信頼症」と名付けて病気とする。
うん、これなら納得できる。
何事も、やり過ぎると病気だ。
どこからが「過ぎ」なのかは、かなり難しい問題になるのだろう。
英語の輸入は、かくの如く難しい。
訳語だけで理解するととんでもない感覚の違いを生み出す。
受験の時の遠い記憶ではdependの構成要素pendは、もたれる、だったように思う。
人と人とが持たれあって、人という漢字は出来ている。というのに似ている。
イギリスとの信頼関係が潰れ、傷ついたアメリカは「非信頼戦争」を起こした。
そういう風に翻訳すると祭り上げられている「独立戦争」も捉え方が変わる。
若者が大人になる時、必要な過程だとは思うが、悲しい出来事だと思えてくる。
お互いを信頼し、頼れるところは、頼りにする。
頼られたら、出来る限り期待に応える。
そんな関係を一人でも多くの人と築ける事が、幸せだと思う。
【追記】
書いた後で調べてみると、pendは、ペンダントのpendであり、「ぶら下がる」でした。なんかちょっと、あまりに違うから、本文直すのめんどくさそうのでやめておきます。あー、イイカゲンなオレー。(謝)
暴力とは何なのか?
主体が元々普通に行えていた事を他者により阻害することである。
…意味がよくわからない。
物理的暴力は解りやすい。身体的接触がある。
肩に手を置いただけでも、暴力と言われれば、暴力である。
ポイントは、「言われれば」である。
励ましたつもりで肩を叩いても、「痛い」と言われれば、暴力である。
セクハラの定義と似ていると思う。
セクハラも、「受けた側がセクハラと感じたらセクハラ」である。
夫婦の営みであろうと、妻が「イヤ」と言ったら、セクハラであり、肉体的接触を伴う場合は「家庭内暴力」である。
言葉による暴力も同じだ。
「親切」で説得しているつもりでも、受けた側が「暴力だ」と感じたら暴力だ。
子供に「叱っている」つもりでも、子供が「恐怖」を感じた時点で「暴力」に変化している。
この判断は非常に難しい。
自分のしている事が「教育」なのか「暴力」でしかないのか。
与えているのか、奪っているのか。
子供は親が絶対であるだけに、言葉が出ない。
親は「イヤ」と言われなければ、「大丈夫」と判断してしまう。
人間は、自分に甘い。
暴力は、短期的な結果は出すことができるが、
長期的には、「百害あって一利なし」だと、私は実感している。
暴力で傷ついた心を癒すためには、大変な時間がかかる。
私自身、衝動的にポンポンと言い返したりする。
その言葉が非常にキツすぎて心がギューっと縮まってしまうと、最初の師匠にも言われたし、妻にも言われた。
以来、気をつけていたつもりだが、「理由」があると歯止めが効かなくなる。
「子供のしつけ」だとか「社会正義」だとかだ。
いくらどれほど正しい理論背景があろうと、他人を傷つけていい論理なんて、なんか変だ。そんな理論を沢山身につければ身につけるほど、「正しさ」にこだわり、「誤り」を排除し、攻撃的な人間に変化してゆく。
そもそも、「暴力はいけない」という主張自体も暴力的だ。
何も否定することなく、幸せな世の中を紡ぎ出す。
それは、実は、簡単なことなはずだ。
ただ、認めるだけでいい。
それだけの、はずだ。
主体が元々普通に行えていた事を他者により阻害することである。
…意味がよくわからない。
物理的暴力は解りやすい。身体的接触がある。
肩に手を置いただけでも、暴力と言われれば、暴力である。
ポイントは、「言われれば」である。
励ましたつもりで肩を叩いても、「痛い」と言われれば、暴力である。
セクハラの定義と似ていると思う。
セクハラも、「受けた側がセクハラと感じたらセクハラ」である。
夫婦の営みであろうと、妻が「イヤ」と言ったら、セクハラであり、肉体的接触を伴う場合は「家庭内暴力」である。
言葉による暴力も同じだ。
「親切」で説得しているつもりでも、受けた側が「暴力だ」と感じたら暴力だ。
子供に「叱っている」つもりでも、子供が「恐怖」を感じた時点で「暴力」に変化している。
この判断は非常に難しい。
自分のしている事が「教育」なのか「暴力」でしかないのか。
与えているのか、奪っているのか。
子供は親が絶対であるだけに、言葉が出ない。
親は「イヤ」と言われなければ、「大丈夫」と判断してしまう。
人間は、自分に甘い。
暴力は、短期的な結果は出すことができるが、
長期的には、「百害あって一利なし」だと、私は実感している。
暴力で傷ついた心を癒すためには、大変な時間がかかる。
私自身、衝動的にポンポンと言い返したりする。
その言葉が非常にキツすぎて心がギューっと縮まってしまうと、最初の師匠にも言われたし、妻にも言われた。
以来、気をつけていたつもりだが、「理由」があると歯止めが効かなくなる。
「子供のしつけ」だとか「社会正義」だとかだ。
いくらどれほど正しい理論背景があろうと、他人を傷つけていい論理なんて、なんか変だ。そんな理論を沢山身につければ身につけるほど、「正しさ」にこだわり、「誤り」を排除し、攻撃的な人間に変化してゆく。
そもそも、「暴力はいけない」という主張自体も暴力的だ。
何も否定することなく、幸せな世の中を紡ぎ出す。
それは、実は、簡単なことなはずだ。
ただ、認めるだけでいい。
それだけの、はずだ。
まだ喫煙者を擁護するには早いのか?
2011年11月11日 日常たまたま、いつものメルマガを処理していたら、こんなの発見。
森永卓郎「たばこ増税はかえって財政悪化を招く――「禁煙原理主義」の暴走を許すな」
http://www.nikkeibp.co.jp/article/sj/20111101/289206/
知らなかった事実だが、喫煙者はまだ、21.7%も居る。
5人に一人が喫煙者。
うーん、そろそろ喫煙者擁護を始めなければ、いかんとは思っていたが
ちょっと多すぎる気もする。
日本人は普及率が50%を越えると急速に伸び出し、すぐに90%まで達するという話を聞いたことがある。
禁煙ブームの普及率も50%を越えたので、急速に90%に近づくんだろう。
そう考えると、喫煙者擁護もそろそろ始めなければ、「喫煙者なんて死ねばいいんだ」なんて暴言がまかり通りそうだ。
集団リンチが始まる。
森永氏が喫煙者なのかどうかしらないが、おもしろい論理を書いていた。
煙草はイカン!という人の説で「肺がん発症者が増えたら社会保険料負担が増えて、国民全体に迷惑を及ぼす」という論理が有名だが、その裏を突いていておもしろい。
たしかに、煙草が1000円とかになると子供は手を出せなる。入り口が狭くなると、喫煙者はゼロに限りなく近づくだろう。
私も、「国民全体に負担が…」という論理は、かねてから、訴訟大国アメリカの、なんだか言いがかりっぽい理屈だとは思っていたが、同じ社会保障の金銭面で論理展開しても、逆の立場に立つと、こんな主張も出来るんですね。
論理とは、立場からの主張の場合が98%だと言う。
ひとつの論理には、必ず逆説がある。
だから、
誰かをいじめるための論理って、とにかくキライです。
森永卓郎「たばこ増税はかえって財政悪化を招く――「禁煙原理主義」の暴走を許すな」
http://www.nikkeibp.co.jp/article/sj/20111101/289206/
知らなかった事実だが、喫煙者はまだ、21.7%も居る。
5人に一人が喫煙者。
うーん、そろそろ喫煙者擁護を始めなければ、いかんとは思っていたが
ちょっと多すぎる気もする。
日本人は普及率が50%を越えると急速に伸び出し、すぐに90%まで達するという話を聞いたことがある。
禁煙ブームの普及率も50%を越えたので、急速に90%に近づくんだろう。
そう考えると、喫煙者擁護もそろそろ始めなければ、「喫煙者なんて死ねばいいんだ」なんて暴言がまかり通りそうだ。
集団リンチが始まる。
森永氏が喫煙者なのかどうかしらないが、おもしろい論理を書いていた。
煙草はイカン!という人の説で「肺がん発症者が増えたら社会保険料負担が増えて、国民全体に迷惑を及ぼす」という論理が有名だが、その裏を突いていておもしろい。
そして、一番大きな財政への影響は年金だ。厚生労働省研究班の調査によると、たばこを吸っている40歳の男性が禁煙をすると、平均余命が1.8年伸びるという。つまり、その期間年金を余分に支払わなければならないことになる。
現在の年金支出は国全体で43兆円だが、もし国民全体の24%を占める喫煙者が全員禁煙したとすると、年金支出は1兆2000億円増える。今回の値上げで減る喫煙者が1割程度だとしても、年金の負担は年間1200億円も増えるのだ。
しかも、年金支給額は、今後の高齢化の進展で加速度的に増えていく。100年後には3倍以上になるのだ。
たばこ増税は今後も続くだろうから、やがて一部の金持ちを除いて、誰もたばこを吸わなくなる。そのときの年金負担増は、毎年3~4兆円に膨れ上がるだろう。
たしかに、煙草が1000円とかになると子供は手を出せなる。入り口が狭くなると、喫煙者はゼロに限りなく近づくだろう。
私も、「国民全体に負担が…」という論理は、かねてから、訴訟大国アメリカの、なんだか言いがかりっぽい理屈だとは思っていたが、同じ社会保障の金銭面で論理展開しても、逆の立場に立つと、こんな主張も出来るんですね。
論理とは、立場からの主張の場合が98%だと言う。
ひとつの論理には、必ず逆説がある。
だから、
誰かをいじめるための論理って、とにかくキライです。
あちこちに返信するのは面倒だし、
一度、まとめておいてもいいかなとは思っていたので、かなり長くなりそうだけど、私が喫煙に関して思ったこと、やった事、いま考えていることをまとめておく。
たぶん、これまでの日記でも書いた事と重複することも多いと思う。ご容赦願いたい。
私のタバコ歴を概観すると、生まれてから18年吸わず、その後15年吸い、15年前から吸っていない。
一番吸っていたのは、日常的に吸わなくなる前の時期で、一日に1箱半だ。
その1年前までは、2日で1箱が標準だった。
人によるが、1日10本では、ヘビースモーカーとは言えないと思う。
いま考えると、たばこを吸っていたのは、好奇心でしかなかった。
大人が吸っていたから、大人みたいになりたい。というのが最初だ。
最初は小学校5年ぐらいにオヤジのタバコを盗み吸いしてみた。
吸った途端に「クラクラ〜」と来て、「あ、オヤジはタバコと称して麻薬を吸っている。」と思ったものだ。かわいい。
常習的に吸うのは高校生の時だ。
かっこつけたかったというおきまりのものだ。
タバコなんて、美味いと思ったことはなかった。
だから、ミントの粒をタバコに埋め込んで吸っていた。
そんな、「誰も知らない吸い方」を知っている事がカッコイイと思っていた。
だが、高校生は金がない。
常態的なバイトもしていなかった。
お小遣いの範囲で買えるタバコの量は、月に一箱って所だったと思う。
仕事をするようになって、ニコチンと付き合うようになる。
ニコチンとカフェインだ。
最初に働いた会社の師匠が、ドリップコーヒーと「ジョーカー」を欠かさない人だった。
演出家という職業を効果的に見せるためだろう、あまり売られていない「ジョーカー」一辺倒だった。
スリムで長く、茶色いタバコ、名前が「ジョーカー」。
古式ゆかしき「演出家」を自ら演出していたのだろう。タバコとはそういう役割があった。
私は、「SomeTime Lite」だった。軽やかな三角形の背景にSomeTimeという若々しさが好きだった。
バブルがもうすぐ来る時代を象徴している。
結婚し、夢より金になり、舞台より企業イベントの会社へ移る。
やりたい事がやらねばな事になる。
社長の一言で平面の仕事どころか職種まで変わる。
カフェインとニコチンがないと仕事が出来なくなる。
その頃、アメリカで喫煙者は出世できないという情報が入ってくる。
インターネットが世間を変革するなんて情報が入ってきても、世間では「???」と反応すら出来ない頃だ。
まだまだ仕事はワープロだったんだから仕方がない。
パソコンに電話線を繋いでいたのは、会社の中のみならず、仕事仲間であと一人いただけの時代だ。
いまでも仕事で付き合っている人がタバコ嫌いだった。
すべての人に「タバコをやめろ」と言っていた。
それは、「自分が迷惑だから」でしかなかった。
だから、その人の言葉に従うのはいやだった。
だが、アメリカの圧力からか厚生省の考え方か、その頃からタバコのパッケージに小さく、注意書きが入るようになった。
世論は、なんとなく、禁煙へと向かい始めていた。
もちろん、そんな後押しはあった。
世間の雰囲気は、自分の意思に影響を与える。
それは間違いないし、それがイヤだとも思わない。
やめるのなら、止めた方が便利そうだな。という思いもでてきていた。
「大人への憧れ」とか、「カッコイイ」とかが理由なら、「面倒だな」でやめるのは、ありだ。
だけど、私が日常的にたばこを吸わなくなったのは、少し違う思いがあった。
あれは、仕事できる人間達が大量に辞めてへとへとになっていたときのことだ。
会社には数代のパソコンが導入されていた。
パソコンの前に、コーヒーと灰皿とタバコとライターを置く。
手はブラインドなので、モニターだけをひたすら見つめる。
モニターだけを見て、タバコを咥え、珈琲をすする。
珈琲の渋みと煙草のヤニが口の中を支配して気分が悪くなる。
くわえた煙草を灰皿に押しつける。
押しつけるために、ふと、灰皿を見る。
すべての煙草が長い。
先の1cmぐらい吸って、すべて消している。
私は、何をしているんだろう。
一粒の米にも七人の神さまがいる。神は本当には居ないが私たちの口に届くまでに七人以上の人々が大事に大事にお米を育てているんだから、一粒を大事にしなさい。と爺さんが言っていて、その言葉は、大事だなと思って暮らしてきた。
米に七人の神さまが居るなら、煙草にも5人や6人はいるだろう。
私は、この煙草に何をしているのだろう。
煙草がかわいそうだ。
そして、煙草をこんな目に合わさなきゃ出来ない仕事って、本当に正しいのだろうか?
すくなくとも、こんな進め方でするのは、正しくない。
それ以来、仕事のやり方を変えた。
出来ないものは出来ないと言うようにした。
そして、「本当にうまい煙草しか吸わない」と決めた。
ニコチンが切れて、次のニコチンを摂取したいから吸う煙草とか、食後に広がる血管を無理矢理収縮させて気持ちよるなるための薬物としての煙草とか、ダウナー系の薬物アルコールにより、ダウンさせた神経をアッパー系の薬物ニコチンで闘わせて、より危険な状態にさせて楽しむ喫煙とか、そんな煙草は吸わない。
「煙草」が「煙草」として純粋に楽しめる状況でなければ吸わないと決めた。
いざ、決めてみると、本当に煙草を吸いたい状況はほとんどなかった。
以来、15年間、吸った煙草は、多分、5本程度だろう。
しかも、最初の10年間は、たぶん、一本も吸ってない。
その10年は、禁煙ブームへの10年間だった。
煙草のパッケージに書かれる文章は徐々に大きくなり、
テレビCMがなくなり、
雑誌の宣伝もなくなり、
煙草の価格はどんどんと上がり続けてきた。
最初に吸ったのは、「DEATH」という煙草を発見したときだった。
会社はやめて、自分一人で仕事をし、法人化をし、特に営業もせず仕事が続いていた。
世間の喫煙者への風当たりは相当に強くなっていた。
喫煙するなんて信じられない。
副流煙で私の健康まで奪っているのよ。
まるで、喫煙者なんて死んでしまえばいいんだ。と言わんばかりだ。
もちろん、喫煙者が死んで良いなんて、暴言だと思う。
だけど、暴言だというと石が飛んできそうな勢いだ。
なんだか、やな時代だなと、感じ始めていた。
そんな時代に「DEATH」という煙草に出会った。
真っ黒なパッケージ。
白いドクロマークに「DEATH」の文字。
「健康のため吸い過ぎに注意しましょう」の時代に堂々と「死」という名前。
この時代に、この反骨精神。たまらない。
ひさしぶりに「大人」を感じた。
誰がどういおうと、やりたい事はやる。そんな意思とひねくれた精神が魂を打ち抜いた。
それが一本目。
残念ながら、「DEATH」は、そのネーミングにそぐわず、普通の煙草だった。
缶PEACEのようなキツイ味を期待していたのに、マイルドセブンのような普通の煙草。
ちぇっ、と思って、残りの煙草は吸わず、賞味期限が切れて、捨てた。
DEATHには、神は宿っていなかったようだ。
(七人の神さまごめんなさい。これはいいわけです〜)
葉巻に手を出したことがあった。
葉巻は15年ぐらい吸い続けないと様にならない。
所作がいろいろあるから、すべての動作がこなれるまで15年ぐらいかかる。
という話を聞いた。
35歳ぐらいで始めて、50ぐらいでかっこいいのか。と思った。
葉巻はふかすだけで肺には入れない。香りを楽しむだけ。
これこそが、「煙草を楽しむ」ではないのか。これはいい!と一式をそろえた。
葉巻用の灰皿。葉巻は放って置いたら消える。長い灰皿が要る。
葉巻カッター。吸い口を切るハサミのようなもの。
葉巻用マッチ。葉巻は火が付くのに時間がかかるから普通のマッチでは足りない。
趣味で吸うんだからライターではなく、マッチに挑戦したい。かっこよさそうだ。
葉巻ケース。大切な一本のために、湿気ないよう、香りが飛ばないようにケースが必要だ。
そして、少し高めの葉巻を一本買った。
うまいのかまずいのかよくわからない。
香りは確かに良い。
だが、部屋があまりに臭くなった。
その日は良いのだが、次の日、葉巻を吸った部屋に入ると、部屋中に匂いが染みついて、居られない。
これは、ダメだ。
葉巻部屋を確保しないと葉巻は吸えない。
わが家に葉巻部屋なんてない、だから、葉巻はヤメだ。
そのご、パッケージが楽しそうなのを見つけては、
気分の良い日曜日などに1本火をつけてみるが、
たいてい、美味くない。
煙草なんて、もともと、美味くないものなのかもしれない。
依存症というのは、「自分に何か欠けている」から依存する必要があるのかもしれない。
私には、少なくとも、ニコチンに依存する理由がないのかもしれない。
酒は好きだし、ゲームも好きだ。家族にも依存していると思う。
たくさんの依存はあるだろうけど、ニコチンは、あまり必要ないのかもしれない。
代償行為を欲するときに、「煙草」とは思わない。
たぶん、バイクでかっ飛ばすとかそっちの方面だと思う。
「煙草」は大人への憧れや、かっこよさへのあこがれでしかない。
この間、「SevenStars Cutting Menthol」という煙草を発見した。
超スリムな煙草なので、20本入りなのにパッケージが薄い。
ラッキーストライクを思わせるどでかい星が真ん中にひとつ。
なんだか、かっこいいので、吸った。
懐かしかった。
高校生の頃、セブンスターにメンソールの粒を突っ込んで、ライターで溶かし、「セブンスターメンソール」という当時発売されていない煙草を作って楽しんでいた頃を思い出した。
天王寺の路地裏を下った所にある「マントヒヒ」という汚いジャズ喫茶を思い出した。そこで読んだ「がんばれタブチ君」を思い出した。
無性に、この煙草が好きになった。
大人への憧れと言うが、大人って言うのは、若い頃への憧憬を持つ人の事なのかもしれない。
次の日、無性にこの煙草が、また、吸いたくなった。
体が欲しているのか、心が欲しているのか、
薬物が欲しているのか。
かなり危険なところに、自分自身を置いて、抑制を楽しんでいる。
抑制がはち切れるとき、バイクを走らせるのだろう。
一度、まとめておいてもいいかなとは思っていたので、かなり長くなりそうだけど、私が喫煙に関して思ったこと、やった事、いま考えていることをまとめておく。
たぶん、これまでの日記でも書いた事と重複することも多いと思う。ご容赦願いたい。
私のタバコ歴を概観すると、生まれてから18年吸わず、その後15年吸い、15年前から吸っていない。
一番吸っていたのは、日常的に吸わなくなる前の時期で、一日に1箱半だ。
その1年前までは、2日で1箱が標準だった。
人によるが、1日10本では、ヘビースモーカーとは言えないと思う。
いま考えると、たばこを吸っていたのは、好奇心でしかなかった。
大人が吸っていたから、大人みたいになりたい。というのが最初だ。
最初は小学校5年ぐらいにオヤジのタバコを盗み吸いしてみた。
吸った途端に「クラクラ〜」と来て、「あ、オヤジはタバコと称して麻薬を吸っている。」と思ったものだ。かわいい。
常習的に吸うのは高校生の時だ。
かっこつけたかったというおきまりのものだ。
タバコなんて、美味いと思ったことはなかった。
だから、ミントの粒をタバコに埋め込んで吸っていた。
そんな、「誰も知らない吸い方」を知っている事がカッコイイと思っていた。
だが、高校生は金がない。
常態的なバイトもしていなかった。
お小遣いの範囲で買えるタバコの量は、月に一箱って所だったと思う。
仕事をするようになって、ニコチンと付き合うようになる。
ニコチンとカフェインだ。
最初に働いた会社の師匠が、ドリップコーヒーと「ジョーカー」を欠かさない人だった。
演出家という職業を効果的に見せるためだろう、あまり売られていない「ジョーカー」一辺倒だった。
スリムで長く、茶色いタバコ、名前が「ジョーカー」。
古式ゆかしき「演出家」を自ら演出していたのだろう。タバコとはそういう役割があった。
私は、「SomeTime Lite」だった。軽やかな三角形の背景にSomeTimeという若々しさが好きだった。
バブルがもうすぐ来る時代を象徴している。
結婚し、夢より金になり、舞台より企業イベントの会社へ移る。
やりたい事がやらねばな事になる。
社長の一言で平面の仕事どころか職種まで変わる。
カフェインとニコチンがないと仕事が出来なくなる。
その頃、アメリカで喫煙者は出世できないという情報が入ってくる。
インターネットが世間を変革するなんて情報が入ってきても、世間では「???」と反応すら出来ない頃だ。
まだまだ仕事はワープロだったんだから仕方がない。
パソコンに電話線を繋いでいたのは、会社の中のみならず、仕事仲間であと一人いただけの時代だ。
いまでも仕事で付き合っている人がタバコ嫌いだった。
すべての人に「タバコをやめろ」と言っていた。
それは、「自分が迷惑だから」でしかなかった。
だから、その人の言葉に従うのはいやだった。
だが、アメリカの圧力からか厚生省の考え方か、その頃からタバコのパッケージに小さく、注意書きが入るようになった。
世論は、なんとなく、禁煙へと向かい始めていた。
もちろん、そんな後押しはあった。
世間の雰囲気は、自分の意思に影響を与える。
それは間違いないし、それがイヤだとも思わない。
やめるのなら、止めた方が便利そうだな。という思いもでてきていた。
「大人への憧れ」とか、「カッコイイ」とかが理由なら、「面倒だな」でやめるのは、ありだ。
だけど、私が日常的にたばこを吸わなくなったのは、少し違う思いがあった。
あれは、仕事できる人間達が大量に辞めてへとへとになっていたときのことだ。
会社には数代のパソコンが導入されていた。
パソコンの前に、コーヒーと灰皿とタバコとライターを置く。
手はブラインドなので、モニターだけをひたすら見つめる。
モニターだけを見て、タバコを咥え、珈琲をすする。
珈琲の渋みと煙草のヤニが口の中を支配して気分が悪くなる。
くわえた煙草を灰皿に押しつける。
押しつけるために、ふと、灰皿を見る。
すべての煙草が長い。
先の1cmぐらい吸って、すべて消している。
私は、何をしているんだろう。
一粒の米にも七人の神さまがいる。神は本当には居ないが私たちの口に届くまでに七人以上の人々が大事に大事にお米を育てているんだから、一粒を大事にしなさい。と爺さんが言っていて、その言葉は、大事だなと思って暮らしてきた。
米に七人の神さまが居るなら、煙草にも5人や6人はいるだろう。
私は、この煙草に何をしているのだろう。
煙草がかわいそうだ。
そして、煙草をこんな目に合わさなきゃ出来ない仕事って、本当に正しいのだろうか?
すくなくとも、こんな進め方でするのは、正しくない。
それ以来、仕事のやり方を変えた。
出来ないものは出来ないと言うようにした。
そして、「本当にうまい煙草しか吸わない」と決めた。
ニコチンが切れて、次のニコチンを摂取したいから吸う煙草とか、食後に広がる血管を無理矢理収縮させて気持ちよるなるための薬物としての煙草とか、ダウナー系の薬物アルコールにより、ダウンさせた神経をアッパー系の薬物ニコチンで闘わせて、より危険な状態にさせて楽しむ喫煙とか、そんな煙草は吸わない。
「煙草」が「煙草」として純粋に楽しめる状況でなければ吸わないと決めた。
いざ、決めてみると、本当に煙草を吸いたい状況はほとんどなかった。
以来、15年間、吸った煙草は、多分、5本程度だろう。
しかも、最初の10年間は、たぶん、一本も吸ってない。
その10年は、禁煙ブームへの10年間だった。
煙草のパッケージに書かれる文章は徐々に大きくなり、
テレビCMがなくなり、
雑誌の宣伝もなくなり、
煙草の価格はどんどんと上がり続けてきた。
最初に吸ったのは、「DEATH」という煙草を発見したときだった。
会社はやめて、自分一人で仕事をし、法人化をし、特に営業もせず仕事が続いていた。
世間の喫煙者への風当たりは相当に強くなっていた。
喫煙するなんて信じられない。
副流煙で私の健康まで奪っているのよ。
まるで、喫煙者なんて死んでしまえばいいんだ。と言わんばかりだ。
もちろん、喫煙者が死んで良いなんて、暴言だと思う。
だけど、暴言だというと石が飛んできそうな勢いだ。
なんだか、やな時代だなと、感じ始めていた。
そんな時代に「DEATH」という煙草に出会った。
真っ黒なパッケージ。
白いドクロマークに「DEATH」の文字。
「健康のため吸い過ぎに注意しましょう」の時代に堂々と「死」という名前。
この時代に、この反骨精神。たまらない。
ひさしぶりに「大人」を感じた。
誰がどういおうと、やりたい事はやる。そんな意思とひねくれた精神が魂を打ち抜いた。
それが一本目。
残念ながら、「DEATH」は、そのネーミングにそぐわず、普通の煙草だった。
缶PEACEのようなキツイ味を期待していたのに、マイルドセブンのような普通の煙草。
ちぇっ、と思って、残りの煙草は吸わず、賞味期限が切れて、捨てた。
DEATHには、神は宿っていなかったようだ。
(七人の神さまごめんなさい。これはいいわけです〜)
葉巻に手を出したことがあった。
葉巻は15年ぐらい吸い続けないと様にならない。
所作がいろいろあるから、すべての動作がこなれるまで15年ぐらいかかる。
という話を聞いた。
35歳ぐらいで始めて、50ぐらいでかっこいいのか。と思った。
葉巻はふかすだけで肺には入れない。香りを楽しむだけ。
これこそが、「煙草を楽しむ」ではないのか。これはいい!と一式をそろえた。
葉巻用の灰皿。葉巻は放って置いたら消える。長い灰皿が要る。
葉巻カッター。吸い口を切るハサミのようなもの。
葉巻用マッチ。葉巻は火が付くのに時間がかかるから普通のマッチでは足りない。
趣味で吸うんだからライターではなく、マッチに挑戦したい。かっこよさそうだ。
葉巻ケース。大切な一本のために、湿気ないよう、香りが飛ばないようにケースが必要だ。
そして、少し高めの葉巻を一本買った。
うまいのかまずいのかよくわからない。
香りは確かに良い。
だが、部屋があまりに臭くなった。
その日は良いのだが、次の日、葉巻を吸った部屋に入ると、部屋中に匂いが染みついて、居られない。
これは、ダメだ。
葉巻部屋を確保しないと葉巻は吸えない。
わが家に葉巻部屋なんてない、だから、葉巻はヤメだ。
そのご、パッケージが楽しそうなのを見つけては、
気分の良い日曜日などに1本火をつけてみるが、
たいてい、美味くない。
煙草なんて、もともと、美味くないものなのかもしれない。
依存症というのは、「自分に何か欠けている」から依存する必要があるのかもしれない。
私には、少なくとも、ニコチンに依存する理由がないのかもしれない。
酒は好きだし、ゲームも好きだ。家族にも依存していると思う。
たくさんの依存はあるだろうけど、ニコチンは、あまり必要ないのかもしれない。
代償行為を欲するときに、「煙草」とは思わない。
たぶん、バイクでかっ飛ばすとかそっちの方面だと思う。
「煙草」は大人への憧れや、かっこよさへのあこがれでしかない。
この間、「SevenStars Cutting Menthol」という煙草を発見した。
超スリムな煙草なので、20本入りなのにパッケージが薄い。
ラッキーストライクを思わせるどでかい星が真ん中にひとつ。
なんだか、かっこいいので、吸った。
懐かしかった。
高校生の頃、セブンスターにメンソールの粒を突っ込んで、ライターで溶かし、「セブンスターメンソール」という当時発売されていない煙草を作って楽しんでいた頃を思い出した。
天王寺の路地裏を下った所にある「マントヒヒ」という汚いジャズ喫茶を思い出した。そこで読んだ「がんばれタブチ君」を思い出した。
無性に、この煙草が好きになった。
大人への憧れと言うが、大人って言うのは、若い頃への憧憬を持つ人の事なのかもしれない。
次の日、無性にこの煙草が、また、吸いたくなった。
体が欲しているのか、心が欲しているのか、
薬物が欲しているのか。
かなり危険なところに、自分自身を置いて、抑制を楽しんでいる。
抑制がはち切れるとき、バイクを走らせるのだろう。
ストレステストは、欧米で、「福島とは条件が違うから、うちの原発は安全」と言うために作ったテスト。
地震大国日本でやっちまって、「安全」なんて結果が出たら、欧米は困るだろう。
嘘がばれちまう。
地震大国日本でやっちまって、「安全」なんて結果が出たら、欧米は困るだろう。
嘘がばれちまう。
鬼平犯科帳 第2シリーズ《第13・14話》
2011年11月4日 日常たまたま、NHK「試してガッテン」を見た。
禁煙の回だった。
今は、良い薬があって、薬を飲んでいれば、自然にタバコが不味くなり、苦労せずにタバコをやめられるそうだ。
詳しい脳内物質の作用を紹介していた。
しかし、その後があった。
喫煙再開率が高いのだそうだ。
喫煙再開の理由は、「幸せの完成」。
脳内麻薬にやられた頭は、「幸せ」と「脳内麻薬」を結びつけてしまっており、「脳内麻薬」が出ないと「幸せが完成」しないのだそうだ。
自分でも不思議なのだそうだ。
素敵な夕陽を見て、「キレイだなぁ」と幸せに感じた時、「脳内麻薬」が追加されないと「幸せに一歩足りない」と感じるそうだ。
訳がわからないまま、タバコをふかす。すると、幸せが完成するのだと。
これは、薬で強化されたパブロフの犬なわけですよね。恐ろしい。
こういうことは、知っておくと知らないでは、全然違うよね。
「幸せに一歩足りない」と感じた時、あ、例の「幸せの完成」か。と分かっているだけで、何もかも台無しにせずに済む。
同じことはどんな依存でも起こるんだろう。
「タバコをふかしたい」だったり、
「酒を飲みたい」だったり、
「ギャンブルがしたい」だったり、
「何もかも壊したい」だったりする。
幸せの瞬間に、そんな「幸せと本来関係ないこと」を欲したとしても、
こんな脳の作用を知ってるだけで自分を笑い飛ばせるようになれると思う。
「おれも、まだまだだな。」と。
ヘェ〜、と感心して、2年ぶりのタバコに火をつけた。
禁煙の回だった。
今は、良い薬があって、薬を飲んでいれば、自然にタバコが不味くなり、苦労せずにタバコをやめられるそうだ。
詳しい脳内物質の作用を紹介していた。
しかし、その後があった。
喫煙再開率が高いのだそうだ。
喫煙再開の理由は、「幸せの完成」。
脳内麻薬にやられた頭は、「幸せ」と「脳内麻薬」を結びつけてしまっており、「脳内麻薬」が出ないと「幸せが完成」しないのだそうだ。
自分でも不思議なのだそうだ。
素敵な夕陽を見て、「キレイだなぁ」と幸せに感じた時、「脳内麻薬」が追加されないと「幸せに一歩足りない」と感じるそうだ。
訳がわからないまま、タバコをふかす。すると、幸せが完成するのだと。
これは、薬で強化されたパブロフの犬なわけですよね。恐ろしい。
こういうことは、知っておくと知らないでは、全然違うよね。
「幸せに一歩足りない」と感じた時、あ、例の「幸せの完成」か。と分かっているだけで、何もかも台無しにせずに済む。
同じことはどんな依存でも起こるんだろう。
「タバコをふかしたい」だったり、
「酒を飲みたい」だったり、
「ギャンブルがしたい」だったり、
「何もかも壊したい」だったりする。
幸せの瞬間に、そんな「幸せと本来関係ないこと」を欲したとしても、
こんな脳の作用を知ってるだけで自分を笑い飛ばせるようになれると思う。
「おれも、まだまだだな。」と。
ヘェ〜、と感心して、2年ぶりのタバコに火をつけた。
一年ぶり2回目のゴルフレッスン。
身体は覚えているものだねぇ。
一度覚えたものは忘れない。
こういう時は便利なものだ。
依存症も一度覚えたら忘れない。
こっちは困ったものだ。
身体なんて単純だ。一度覚えると忘れない。
覚えたものは仕方ない。
誰を非難しても治らない。
依存症との付き合い方を訓練するしかない。
元に戻すことは、不可能だと覚悟するしかない。
呑み込まれない方策を編み出すしかない。
自分は治ったなんて、信じちゃ負けだ。
身体は覚えているものだねぇ。
一度覚えたものは忘れない。
こういう時は便利なものだ。
依存症も一度覚えたら忘れない。
こっちは困ったものだ。
身体なんて単純だ。一度覚えると忘れない。
覚えたものは仕方ない。
誰を非難しても治らない。
依存症との付き合い方を訓練するしかない。
元に戻すことは、不可能だと覚悟するしかない。
呑み込まれない方策を編み出すしかない。
自分は治ったなんて、信じちゃ負けだ。
得意先と行く人がキャンセルだそうで、突然試写会。御堂会館。
「カイジ1」は見てないので、ちっ、とは思ったが、1のあたりは、何となくアニメや漫画で目にしてるし、1を見てないと分からないような仕組みは、3箇所あればいい方だろう。と想像してたら、案の定その通り。
●「2」だけで満足度はクリアする。
●「1」の売上アップの施策も施す。
結論として、関連は3箇所程度。
ま、マーケティング通り。
しかし、儲ける仕組みはそんなもんじゃ止まらなかった。
会場で、漫画冊子が配られた。
本編の導入部15分ぐらいの原作部分。
漫画の売り上げアップも期待されているようだ。ご苦労様。
これ、劇場でも配るのかな?
本編は、ま、ツッコミどころ満載の楽しい映画。
見た人全員が帰りに突っ込んで盛り上がれます。
そして、「所詮、マンガ」と差別意識満載になれます。
ギャンブルでアドレナリンドクドクの人には楽しいのかもしれませんが、一般人には、アリエネーなお話です。
原作では、丁寧に書かれている設定も映画で端折ってしまうと、薄っぺらさが露呈、いくらでも突っ込めます。
藤原竜也はしっかりとした演技ですが、伊勢谷くんは「これはギャグキャラ」と割り切って悪役やってるんでしょうね。
それにしても、パチンコ台が相手じゃ心理戦もへったくれもありませんね。
ほんと、みんなで笑って突っ込めますので、オススメです。
しかし、2時間13分はちょっと長すぎ。
15分ぐらい切れるでしょ、2時間以内にして欲しかったなぁ。
「カイジ1」は見てないので、ちっ、とは思ったが、1のあたりは、何となくアニメや漫画で目にしてるし、1を見てないと分からないような仕組みは、3箇所あればいい方だろう。と想像してたら、案の定その通り。
●「2」だけで満足度はクリアする。
●「1」の売上アップの施策も施す。
結論として、関連は3箇所程度。
ま、マーケティング通り。
しかし、儲ける仕組みはそんなもんじゃ止まらなかった。
会場で、漫画冊子が配られた。
本編の導入部15分ぐらいの原作部分。
漫画の売り上げアップも期待されているようだ。ご苦労様。
これ、劇場でも配るのかな?
本編は、ま、ツッコミどころ満載の楽しい映画。
見た人全員が帰りに突っ込んで盛り上がれます。
そして、「所詮、マンガ」と差別意識満載になれます。
ギャンブルでアドレナリンドクドクの人には楽しいのかもしれませんが、一般人には、アリエネーなお話です。
原作では、丁寧に書かれている設定も映画で端折ってしまうと、薄っぺらさが露呈、いくらでも突っ込めます。
藤原竜也はしっかりとした演技ですが、伊勢谷くんは「これはギャグキャラ」と割り切って悪役やってるんでしょうね。
それにしても、パチンコ台が相手じゃ心理戦もへったくれもありませんね。
ほんと、みんなで笑って突っ込めますので、オススメです。
しかし、2時間13分はちょっと長すぎ。
15分ぐらい切れるでしょ、2時間以内にして欲しかったなぁ。
風呂で体を洗う時になにで洗いますか?
子供の頃は、タオルでした。
たまに銭湯に行くと、「パーン」と大きな音がして、振り向くと日本手拭いを畳んでいる爺さんなんかがいました。
小学校高学年ぐらいでしょうか。祖父さんか親父かがアカスリタオルという韓国で流行の身体洗い専用のタオルを買ってきました。真っ赤なナイロンタオルでした。
子供の皮膚にはとても痛く、使わなかったけど、パイル地のタオルより絞りやすいな。と、思いました。子供の手には、パイル地のタオルは畳むと太過ぎて、絞れないのです。
やがて、さまざまなゴシゴシタオルの登場です。
高校の頃、ファッション誌「ポパイ」の雑貨特集なんかをみて、体洗いブラシなんかを買ったこともありますね。
さて、年をとり、スポーツジムに通うようになると、荷物は最小限にしたくなります。ボーイスカウトの悲しい性です。荷物は少ない方が片付けが速い。素早く次の行動ができる。
タオルの本数は少ない方が良い。
プールにはいるのだから、バスタオルは必須。
風呂に持ち込むのは、何か?
普通のパイル地のタオルですよね。
ところが、
時間がきたので、続きはウェブで…。
(24時間が経過、続きはもちろんここ以外に、どこにもありません)
ところが、ゴシゴシタオルに慣れた身体には、パイル地だとこすった気がしない。
洗えてない気がします。
石鹸をつけると、体の上をにゅるりーんと滑って行くだけで、垢が落ちてる気がしない。
慣れとは恐ろしいものです。
かと言って、ゴシゴシタオルまで持ち込むと面倒なことになります。
湯船に2本持ち込めない。2本とも湯船に落ちないように管理なんてできません。頭の上に2本乗せてるとか想像するだけで笑ってしまいます。
とすると、どこかに置かなきゃならない。
プラカゴ?
そういえば皆さんプラカゴにシャンプーリンスとゴシゴシタオル入れて持ち込んでますねぇー。
いやいや、私はシャンプーリンスにこだわりはないので、ジム備え付けので構いません。
あんなカゴ、洗ったり乾かしたり詰めたり出したり面倒です。濡れ物はすぐにカビたりするので無いに越したことはありません。キチンと管理出来ないなら使わない。ましてや、ゴシゴシタオル1本のためにカゴなんて、ね。
かと言って、風呂場の床にゴシゴシタオル1本置いておくなんて、絵的に変です。
「落し物ですよ~」と声かけてしまいます。
パイル地をやめて、ゴシゴシタオル1本だけ、というのも考えましたが、それもなんか、変です。
前を隠すにしては、透け透けで、みょーにセクシー。隠してるのか、見せつけてるのかわからなくなります。
隠さなくても、別に恥ずかしくもないですが、見せつけるほどの持ち物でもございません。
ただ単に、先に湯船に入っている人の、目の高さでブラブラさせたりすると、相手が困るかな、と。「ブラブラしてるな、目を逸らすか、そらすのも失礼か、いや、見つめるのはもっとダメだろう。」などと要らぬ頭を使わせるのもなんだなと、その程度の気遣いでしかないんです。
それなのに、シースルーでセクシーに隠されては、「あたし、誘ってるわよ」「むほっ!やらないか」とか、もう、予想外方面の間違い気遣いが派生して、あー、根本的に無理!「私は、女好きなのよー」などとか叫んでしまいますわよー。ぜいぜい。
閑話休題
ほかにも、ゴシゴシタオルの欠点は、畳んで置いておくにしても、頭に乗せるにしても、折り目がつかず、ビヨーンと広がる。
更衣室に出る前に、体についた水滴をざっと落とす時にも、そもそも水なんて吸わないんだから、役に立たない。
とにかく、彼は主役になれない存在です。
なんか、ないかなー。
と、思い出したのが、「パーン」という音。日本手拭い。
試してみようと、カミさんに聞いたら、準さんが高校の時、剣道の授業で使ってた日本手拭いがあるという。
使ってみると、これがいい。
畳み方で、布の端が肌に当たるようにするとゴシゴシタオル並の硬さで当たるし、端が出ないように折ると、柔らかい肌触りになる。
身体の水滴落とすぐらいには、水も吸う。
子供の手でも絞れる太さ。
絞って、パーンってやって、ちょっと吊っとけば、すぐに乾く。
持ち帰りの時に、タオルみたいにベチャベチャしない、重く無い。
まさに、日本の風呂文化のために作られた道具なんですねぇ。
パイル地タオルは頭の上に乗せると、ちょっと厚い。落ちそうだ。
頭の上には、日本手拭いが一番丁度いい。
満足満足、良い解決策を見つけた。と、思っていたけど、
ずっと使ってると、準さんの手拭いは、ミョーにカッコいい。
ハーフトーンのくすんだブルーに、濃いブルーのドラゴン柄が全面スタンプ。
「日本手拭いに見えない日本手拭い」をコンセプトに選んだしろもの。
銭湯では、これが気になる。
桶で洗ってると、まるで洗濯物を洗っているように見える。
ボクサーパンツをジャブジャブ。タオルに見えない。(確かにタオルじゃない)
日本手拭いという一般的じゃないものを公共の場で使う時には、誰もが認知できるものを使うのが親切ってものだ。もっと和柄なものが、いい。
ま、ほとんど私の気にし過ぎだ。ということはわかっているけど、日本手拭いが気に入ったのに、借り物だってところが気に食わないのかもしれない。
でも、豆絞りとかまで行くと、それはそれでやり過ぎ感がある。
宇治に遊びに行った時、いい手拭い屋があったなぁ。とか思い出すけど、わざわざ行くほどじゃ無い。
普段の立ち回り先に手拭いは少ない。豆絞りみたいなのばっかりだ。
ま、良いのにそのうち出会えりゃ幸せ、とのんびりかまえていた。
と、
ここまでが、長い長いネタフリ。
こないだの結婚式の事。帰りにいただいた引き出物。
なんだかしょぼい布の手提げに入っている。
地産地消がテーマのようだし、この手提げには、なにか地雷が埋め込まれているな。下手に踏んだら、爆発するぞ。と、帰ってから確かめると、なんと日本手拭い。
手拭いを、くいっ、くいくいっと斜めに折り曲げて、2箇所ざっくりミシンをかけただけなので、それをほどけば、元の手拭い出現。
しかも、いくつかあった柄の中から、私に当たったのは落語家の家紋柄。
縦にズバッと臙脂と白に塗り分けられ、家紋が散らばめられた、純日本風。
こりゃ、うれしい。
あ、これ、枝雀寄席の背景にあった紋。などと楽しみながら、ジムの湯船で頭に乗っけてニンマリいたしております。
子供の頃は、タオルでした。
たまに銭湯に行くと、「パーン」と大きな音がして、振り向くと日本手拭いを畳んでいる爺さんなんかがいました。
小学校高学年ぐらいでしょうか。祖父さんか親父かがアカスリタオルという韓国で流行の身体洗い専用のタオルを買ってきました。真っ赤なナイロンタオルでした。
子供の皮膚にはとても痛く、使わなかったけど、パイル地のタオルより絞りやすいな。と、思いました。子供の手には、パイル地のタオルは畳むと太過ぎて、絞れないのです。
やがて、さまざまなゴシゴシタオルの登場です。
高校の頃、ファッション誌「ポパイ」の雑貨特集なんかをみて、体洗いブラシなんかを買ったこともありますね。
さて、年をとり、スポーツジムに通うようになると、荷物は最小限にしたくなります。ボーイスカウトの悲しい性です。荷物は少ない方が片付けが速い。素早く次の行動ができる。
タオルの本数は少ない方が良い。
プールにはいるのだから、バスタオルは必須。
風呂に持ち込むのは、何か?
普通のパイル地のタオルですよね。
ところが、
時間がきたので、続きはウェブで…。
(24時間が経過、続きはもちろんここ以外に、どこにもありません)
ところが、ゴシゴシタオルに慣れた身体には、パイル地だとこすった気がしない。
洗えてない気がします。
石鹸をつけると、体の上をにゅるりーんと滑って行くだけで、垢が落ちてる気がしない。
慣れとは恐ろしいものです。
かと言って、ゴシゴシタオルまで持ち込むと面倒なことになります。
湯船に2本持ち込めない。2本とも湯船に落ちないように管理なんてできません。頭の上に2本乗せてるとか想像するだけで笑ってしまいます。
とすると、どこかに置かなきゃならない。
プラカゴ?
そういえば皆さんプラカゴにシャンプーリンスとゴシゴシタオル入れて持ち込んでますねぇー。
いやいや、私はシャンプーリンスにこだわりはないので、ジム備え付けので構いません。
あんなカゴ、洗ったり乾かしたり詰めたり出したり面倒です。濡れ物はすぐにカビたりするので無いに越したことはありません。キチンと管理出来ないなら使わない。ましてや、ゴシゴシタオル1本のためにカゴなんて、ね。
かと言って、風呂場の床にゴシゴシタオル1本置いておくなんて、絵的に変です。
「落し物ですよ~」と声かけてしまいます。
パイル地をやめて、ゴシゴシタオル1本だけ、というのも考えましたが、それもなんか、変です。
前を隠すにしては、透け透けで、みょーにセクシー。隠してるのか、見せつけてるのかわからなくなります。
隠さなくても、別に恥ずかしくもないですが、見せつけるほどの持ち物でもございません。
ただ単に、先に湯船に入っている人の、目の高さでブラブラさせたりすると、相手が困るかな、と。「ブラブラしてるな、目を逸らすか、そらすのも失礼か、いや、見つめるのはもっとダメだろう。」などと要らぬ頭を使わせるのもなんだなと、その程度の気遣いでしかないんです。
それなのに、シースルーでセクシーに隠されては、「あたし、誘ってるわよ」「むほっ!やらないか」とか、もう、予想外方面の間違い気遣いが派生して、あー、根本的に無理!「私は、女好きなのよー」などとか叫んでしまいますわよー。ぜいぜい。
閑話休題
ほかにも、ゴシゴシタオルの欠点は、畳んで置いておくにしても、頭に乗せるにしても、折り目がつかず、ビヨーンと広がる。
更衣室に出る前に、体についた水滴をざっと落とす時にも、そもそも水なんて吸わないんだから、役に立たない。
とにかく、彼は主役になれない存在です。
なんか、ないかなー。
と、思い出したのが、「パーン」という音。日本手拭い。
試してみようと、カミさんに聞いたら、準さんが高校の時、剣道の授業で使ってた日本手拭いがあるという。
使ってみると、これがいい。
畳み方で、布の端が肌に当たるようにするとゴシゴシタオル並の硬さで当たるし、端が出ないように折ると、柔らかい肌触りになる。
身体の水滴落とすぐらいには、水も吸う。
子供の手でも絞れる太さ。
絞って、パーンってやって、ちょっと吊っとけば、すぐに乾く。
持ち帰りの時に、タオルみたいにベチャベチャしない、重く無い。
まさに、日本の風呂文化のために作られた道具なんですねぇ。
パイル地タオルは頭の上に乗せると、ちょっと厚い。落ちそうだ。
頭の上には、日本手拭いが一番丁度いい。
満足満足、良い解決策を見つけた。と、思っていたけど、
ずっと使ってると、準さんの手拭いは、ミョーにカッコいい。
ハーフトーンのくすんだブルーに、濃いブルーのドラゴン柄が全面スタンプ。
「日本手拭いに見えない日本手拭い」をコンセプトに選んだしろもの。
銭湯では、これが気になる。
桶で洗ってると、まるで洗濯物を洗っているように見える。
ボクサーパンツをジャブジャブ。タオルに見えない。(確かにタオルじゃない)
日本手拭いという一般的じゃないものを公共の場で使う時には、誰もが認知できるものを使うのが親切ってものだ。もっと和柄なものが、いい。
ま、ほとんど私の気にし過ぎだ。ということはわかっているけど、日本手拭いが気に入ったのに、借り物だってところが気に食わないのかもしれない。
でも、豆絞りとかまで行くと、それはそれでやり過ぎ感がある。
宇治に遊びに行った時、いい手拭い屋があったなぁ。とか思い出すけど、わざわざ行くほどじゃ無い。
普段の立ち回り先に手拭いは少ない。豆絞りみたいなのばっかりだ。
ま、良いのにそのうち出会えりゃ幸せ、とのんびりかまえていた。
と、
ここまでが、長い長いネタフリ。
こないだの結婚式の事。帰りにいただいた引き出物。
なんだかしょぼい布の手提げに入っている。
地産地消がテーマのようだし、この手提げには、なにか地雷が埋め込まれているな。下手に踏んだら、爆発するぞ。と、帰ってから確かめると、なんと日本手拭い。
手拭いを、くいっ、くいくいっと斜めに折り曲げて、2箇所ざっくりミシンをかけただけなので、それをほどけば、元の手拭い出現。
しかも、いくつかあった柄の中から、私に当たったのは落語家の家紋柄。
縦にズバッと臙脂と白に塗り分けられ、家紋が散らばめられた、純日本風。
こりゃ、うれしい。
あ、これ、枝雀寄席の背景にあった紋。などと楽しみながら、ジムの湯船で頭に乗っけてニンマリいたしております。
たまーに、非通知ワン切りの電話がかかってくる。
今日も昼間にプルルと一回鳴って切れた。
ワン切りは、リダイヤルすると国際電話に繋がり、法外な請求書が来るという悪徳商法であるが、非通知が解せぬ。
非通知だとリダイヤル出来ない。いわゆるワン切り詐欺では無いようだ。
仕事用の電話番号にかかっている。
この番号は名刺に刷り込んでいるので、どこに漏れていてもおかしくしない。
しかし、個人の番号ではないので、昔の女が恨んでいるわよと鳴らしているわけでもない。
まったく意味がわからない。
もう、3回目ぐらいになるので、なにか裏があるのだろうと調べてみる。
多分、回線が生きているかどうかのチェックだろうという意見があった。
回線が死んでいれば、「現在使われておりません…」が流れる。
プルルと鳴れば、生きている。
名簿業者がソフトを組んで、定期的に全リストに電話をかける。
死んでいる電話番号をリストから外す。
売買用の名簿のメンテナンス作業だ。
そういえば、今日は月末。
電話を解約するなら月末が得だ。
月末は名簿リストの日とプログラムに書き込まれているのだろう。
はぁ、手作業ならやらなかった仕事も、プログラムなら、費用も労力もかけずに実行できる。NTTの交換機に負担がかかるだけだ。
何だか、大変な時代だなぁ。
ということは、
数ヶ月電話を解約しておけば、名簿業者のリストから消せるって事か。
引越しとかで、電話番号が変わることがあれば、数ヶ月前から契約しておくとクリーンな番号が手に入るかもしれない。
ま、無駄かな。
今日も昼間にプルルと一回鳴って切れた。
ワン切りは、リダイヤルすると国際電話に繋がり、法外な請求書が来るという悪徳商法であるが、非通知が解せぬ。
非通知だとリダイヤル出来ない。いわゆるワン切り詐欺では無いようだ。
仕事用の電話番号にかかっている。
この番号は名刺に刷り込んでいるので、どこに漏れていてもおかしくしない。
しかし、個人の番号ではないので、昔の女が恨んでいるわよと鳴らしているわけでもない。
まったく意味がわからない。
もう、3回目ぐらいになるので、なにか裏があるのだろうと調べてみる。
多分、回線が生きているかどうかのチェックだろうという意見があった。
回線が死んでいれば、「現在使われておりません…」が流れる。
プルルと鳴れば、生きている。
名簿業者がソフトを組んで、定期的に全リストに電話をかける。
死んでいる電話番号をリストから外す。
売買用の名簿のメンテナンス作業だ。
そういえば、今日は月末。
電話を解約するなら月末が得だ。
月末は名簿リストの日とプログラムに書き込まれているのだろう。
はぁ、手作業ならやらなかった仕事も、プログラムなら、費用も労力もかけずに実行できる。NTTの交換機に負担がかかるだけだ。
何だか、大変な時代だなぁ。
ということは、
数ヶ月電話を解約しておけば、名簿業者のリストから消せるって事か。
引越しとかで、電話番号が変わることがあれば、数ヶ月前から契約しておくとクリーンな番号が手に入るかもしれない。
ま、無駄かな。
チェルノブイリの基準値
2011年10月30日 日常そうかー、チェルノブイリのデータは取れてないんじゃないんだ。
まだ、25年だから、事故の時産まれた人はまだ25才なんだ。
ガンは50歳ぐらいから発症が増えるから、あと25年ぐらい経たないと比較が出来ない。だから、基準値の結論が出ないんだ。
現状チェルノブイリでは、ヨウ素による若年性甲状腺ガンはでているけど、その他のガンはでていない。ヨウ素は半減期が8日なので、この件はすでに終了。
その他のガンに関しての基準値は、あれこれあるけど、全部推測値。
これが現実。
チェルノブイリの結果が出る頃、あたしゃ75歳。
福島の調査結果が出る頃、私は100歳。子供が70歳。
あはは、結論は、まだ見ぬ孫に託すしかない。
孫、早く見て、いろんな話をしておきたい。
まだ、25年だから、事故の時産まれた人はまだ25才なんだ。
ガンは50歳ぐらいから発症が増えるから、あと25年ぐらい経たないと比較が出来ない。だから、基準値の結論が出ないんだ。
現状チェルノブイリでは、ヨウ素による若年性甲状腺ガンはでているけど、その他のガンはでていない。ヨウ素は半減期が8日なので、この件はすでに終了。
その他のガンに関しての基準値は、あれこれあるけど、全部推測値。
これが現実。
チェルノブイリの結果が出る頃、あたしゃ75歳。
福島の調査結果が出る頃、私は100歳。子供が70歳。
あはは、結論は、まだ見ぬ孫に託すしかない。
孫、早く見て、いろんな話をしておきたい。
屋上のシマトネリコがいまいち育ちが悪い。
シマトネリコの育て方を何度も読みながら育てているが、本来のシマトネリコならもっと活発に動くはずだ。
育ってはいるのだが、葉が丸まったりする。
害虫か?根詰まりか?水が多いのか少ないのか?とふた夏あれこれと試したが変化はない。
一進一退。
ふと、屋上緑化で調べてみると、屋上という環境そのものの特性が地上と異なる事が分かった。風が強いため、乾燥しやすく、枝も痛みやすい。添え木が有効らしい。
添え木には疑問があった。
街路樹などで添え木はよく見るが、本来、野山で自生している時には、添え木なんてなくて当たり前なんだから、添え木なんて甘えた事をしても、強い子に育たないんじゃないか?
そんな風に考えていた。
添え木をしてみた。
シマトネリコはいきなり芽を吹き始めた。
どうやら私のスパルタな考え方は間違っていたようだ。
環境がきつすぎると、子供は育てないのかもしれない。
親は子供に、何をしてあげればいいのかと、思い、悩み、試し、外す。
でも、本当に必要なのは、添え木なのかもしれない。
いつでも、そこにあり、強い風がきたらもたれられ、普段は、少し邪魔で、無意味なんだけど、そこにあり続ける。
いつでも、常にそこにあるという安心感。
親の仕事なんて、それさえ与えられれば、100点満点をあげてもいいのかもしれない。
子供は勝手に学び、勝手に工夫し、勝手に育つ。
子供が勝手に失敗した時、いつもと変わらぬ日常が、それでも、いつもと同じように回っている。それは大きな安心感を産む。あまりに変わらなさすぎる日常に腹を立てるかもしれない。でも、腹立ちが収まっても、そこにある。ただ、あり続ける。
子供は独立し、自立してこそ完成形だ。
親があれこれと助けていっても、良いことはそれほどない。
あり続ける日常が嫌になった時、子供は巣立つことだろう。
なにより、ほおっておいても、添え木はやがて朽ちる。
朽ちれば子供も巣立つしかない。
子供を成人させ、振り返る事ができる今、いろいろやってはみたが、結局子育ての極意は、添え木程度の事なのかもなぁと考えた。
添え木でいいのであれば、私の親も最期まで私達を見捨てず、そこに居続けた。
少し細すぎたかもしれないが。
どんな添え木も、強すぎる風には折れるものだ。赦そう。
シマトネリコの育て方を何度も読みながら育てているが、本来のシマトネリコならもっと活発に動くはずだ。
育ってはいるのだが、葉が丸まったりする。
害虫か?根詰まりか?水が多いのか少ないのか?とふた夏あれこれと試したが変化はない。
一進一退。
ふと、屋上緑化で調べてみると、屋上という環境そのものの特性が地上と異なる事が分かった。風が強いため、乾燥しやすく、枝も痛みやすい。添え木が有効らしい。
添え木には疑問があった。
街路樹などで添え木はよく見るが、本来、野山で自生している時には、添え木なんてなくて当たり前なんだから、添え木なんて甘えた事をしても、強い子に育たないんじゃないか?
そんな風に考えていた。
添え木をしてみた。
シマトネリコはいきなり芽を吹き始めた。
どうやら私のスパルタな考え方は間違っていたようだ。
環境がきつすぎると、子供は育てないのかもしれない。
親は子供に、何をしてあげればいいのかと、思い、悩み、試し、外す。
でも、本当に必要なのは、添え木なのかもしれない。
いつでも、そこにあり、強い風がきたらもたれられ、普段は、少し邪魔で、無意味なんだけど、そこにあり続ける。
いつでも、常にそこにあるという安心感。
親の仕事なんて、それさえ与えられれば、100点満点をあげてもいいのかもしれない。
子供は勝手に学び、勝手に工夫し、勝手に育つ。
子供が勝手に失敗した時、いつもと変わらぬ日常が、それでも、いつもと同じように回っている。それは大きな安心感を産む。あまりに変わらなさすぎる日常に腹を立てるかもしれない。でも、腹立ちが収まっても、そこにある。ただ、あり続ける。
子供は独立し、自立してこそ完成形だ。
親があれこれと助けていっても、良いことはそれほどない。
あり続ける日常が嫌になった時、子供は巣立つことだろう。
なにより、ほおっておいても、添え木はやがて朽ちる。
朽ちれば子供も巣立つしかない。
子供を成人させ、振り返る事ができる今、いろいろやってはみたが、結局子育ての極意は、添え木程度の事なのかもなぁと考えた。
添え木でいいのであれば、私の親も最期まで私達を見捨てず、そこに居続けた。
少し細すぎたかもしれないが。
どんな添え木も、強すぎる風には折れるものだ。赦そう。
踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ!
2011年10月29日 日常
「見なくていい」と評判の3である。
なぜ、いま、作ったのか?
そこがわからん。
ターミネーター3も同じ疑問があった。
ふたを開けたら、シュワちゃんの選挙活動だった。
同じようなことが起きるのか?
それにしては、若すぎる織田裕二。
中身は織田裕二映画。
群像は出るが、群像劇ではない。
老人性の懐古趣味なのか、思い出話やその後のストーリーは散りばめられているが、人間は描かれていない。
ただ、織田裕二一人が居る。
シナリオに口を出す役者というのは制作に金を出しているのだろうか?
出していないとしたら、なんだろう。
「視聴率○%を持っているタレント」ってやつだろうか。
作品の質がそんなもので決まっていく。
ま、また「見なくていい」映画をみてしまった。
こういうものも、下肥やしにはなるものだ。数のうち数のうち。
なぜ、いま、作ったのか?
そこがわからん。
ターミネーター3も同じ疑問があった。
ふたを開けたら、シュワちゃんの選挙活動だった。
同じようなことが起きるのか?
それにしては、若すぎる織田裕二。
中身は織田裕二映画。
群像は出るが、群像劇ではない。
老人性の懐古趣味なのか、思い出話やその後のストーリーは散りばめられているが、人間は描かれていない。
ただ、織田裕二一人が居る。
シナリオに口を出す役者というのは制作に金を出しているのだろうか?
出していないとしたら、なんだろう。
「視聴率○%を持っているタレント」ってやつだろうか。
作品の質がそんなもので決まっていく。
ま、また「見なくていい」映画をみてしまった。
こういうものも、下肥やしにはなるものだ。数のうち数のうち。
魔法少女まどか☆マギカの5巻がずっとレンタル中。
6巻があったのでレンタルしてコピーしてしまった。
これですぐ見れる。
違法ですよね。うん、違法です。
レンタルビデオって、不便すぎます。いつでもネットで見れれば、もっと売り上げ上がると思うわ。
これが、こんな面白いアニメだから、何度も足運ぶけど、そんな作品、滅多にないものね。きっとめげて、もういいやって、なってるよ。
だから違法だってわかっててもコピーするの。
私が悪いんじゃない。しゃかいのしくみがわるいのよ。
って、完全に犯罪者の思考パターンだな。
ということで、思いとどまって、コピーしなかった。
と、公式発表はそれにしとく。
6巻があったのでレンタルしてコピーしてしまった。
これですぐ見れる。
違法ですよね。うん、違法です。
レンタルビデオって、不便すぎます。いつでもネットで見れれば、もっと売り上げ上がると思うわ。
これが、こんな面白いアニメだから、何度も足運ぶけど、そんな作品、滅多にないものね。きっとめげて、もういいやって、なってるよ。
だから違法だってわかっててもコピーするの。
私が悪いんじゃない。しゃかいのしくみがわるいのよ。
って、完全に犯罪者の思考パターンだな。
ということで、思いとどまって、コピーしなかった。
と、公式発表はそれにしとく。
一人の天才に支えられた会社は3年で滅ぶ。
と予測していたんだが、よく考えるとエジソンさんがいる。
エジソンが産みだした会社GE(General Electrics)は今も健在だ。
アップルがGEになれるか?
そんな事を考えている。
11.03追記
エジソンは84歳まで生きた。
死ぬ前に経営も譲っている。
無理だな。
と予測していたんだが、よく考えるとエジソンさんがいる。
エジソンが産みだした会社GE(General Electrics)は今も健在だ。
アップルがGEになれるか?
そんな事を考えている。
11.03追記
エジソンは84歳まで生きた。
死ぬ前に経営も譲っている。
無理だな。
もっと税金取ってとアメリカの富裕層。
「ウォール街をぶっつぶせ」のやり玉に挙がるのを嫌っての事だろうと思うが、日本でもあんなデモやれば、こんな富裕層が出てくるかもしれないね。
「ウォール街をぶっつぶせ」のやり玉に挙がるのを嫌っての事だろうと思うが、日本でもあんなデモやれば、こんな富裕層が出てくるかもしれないね。
●森永卓郎:ケタ外れの金持ちが「もっと税を取って」と懇願する米国
――日本も見習って、所得税と相続税を上げろ
→ http://www.nikkeibp.co.jp/article/news/20111025/288494/?ml
2011年9月19日にオバマ大統領が今後10年間で総額3兆ドル(日本円で230兆円)の財政赤字を削減する再建案を発表した。驚くべきは、その内容だ。財政赤字削減の半分が、富裕層への増税で賄われる。
しかし、日本もたとえば所得税の最高税率は86年までは70%だった。それが現在40%にまで引き下げられている。
現在50%である相続税の最高税率は55%に引き上げられることになっているが、88年までは75%だった。これらを元に戻すだけで富裕層への増税は十分できる。
もっと問題なのは証券税制だ。現在、上場株の配当に対しては地方税も含めて10%しか課税されていない。たとえば年間5000万円とも言われる鳩山元総理の配当収入に対してたった500万円しか課税していないのだ。こうした不公平を正すことを税制改革の第一歩にしなければならない。
今日本で富裕層課税を導入しようと思えば、やはり「所得の把握が困難」「資産の把握が困難」といった技術的な難しさを指摘する声が出るかもしれない。
ただ、今でも制度上は退職所得以外の所得金額の合計額が2000万円を超える個人は税務署に「財産及び債務の明細書」を提出する義務がある。未提出でも罰則がないから実効性は乏しいが、未提出や虚偽記載には重い罰則を科し、富裕層課税に結び付けていく道はある。消費税率の引き上げよりは、ずっと抵抗が少ないのではないか。
鬼平犯科帳 第2シリーズ《第11・12話》
2011年10月27日 日常
第11話『四度目の女房』
すでに鬼平犯科帳じゃなくなって、人情話。
こんな女房、憧れるけどめんどくさいともいう。
第12話『雨乞い庄右衛門』
ゲストの田村高廣万歳な作品、クサイけどいい演技、グッとくる。
死を目前の盗人棟梁が為すべき事とは。
よぼよぼなのに、超速の殺陣。ヤヴァイ。
心理表現の演技ってジェットコースタードラマ以降どんどん消えてる。
松竹新喜劇って説教臭くて嫌いだったけど、大人になって見るといいもんだ。
子供の頃にたくさんああいうものを観たのは確かに何かが刻まれている。
年寄りだからこそわかる機微。
アンチエイジングが花盛りとはいえ、文化にまでアンチエイジングが進出するのはいかがなもんだろう。
ま、売れなきゃどうしようも無いんだが。
すでに鬼平犯科帳じゃなくなって、人情話。
こんな女房、憧れるけどめんどくさいともいう。
第12話『雨乞い庄右衛門』
ゲストの田村高廣万歳な作品、クサイけどいい演技、グッとくる。
死を目前の盗人棟梁が為すべき事とは。
よぼよぼなのに、超速の殺陣。ヤヴァイ。
心理表現の演技ってジェットコースタードラマ以降どんどん消えてる。
松竹新喜劇って説教臭くて嫌いだったけど、大人になって見るといいもんだ。
子供の頃にたくさんああいうものを観たのは確かに何かが刻まれている。
年寄りだからこそわかる機微。
アンチエイジングが花盛りとはいえ、文化にまでアンチエイジングが進出するのはいかがなもんだろう。
ま、売れなきゃどうしようも無いんだが。