2015年9月6日 日常
無形民俗文化財の動画を見た。

もう4年休止している祭を、記録映像を撮影するために再現してもらう映像だ。

小学6年生が鬼に扮し、行列の先頭をゆく。

失われつつある日本文化。
最後に一度経験できてうれしいという小学生。
つらい稽古が一通りすむと出てきた、「鬼の面」。
異様な面、自分が異形になる面。
真剣に稽古に励む小学生。

当日、手甲脚絆鬼の面にかぶり物。
母親達のスマホ大会。
完全なる異形。コスプレ大会。
稽古を積んでいるため、コスプレと言うより異形。
そのまわりをついて回る友達の小学生。

あらゆるものが混沌としながら、神社での奉納。
まとわりついていた小学生が空気を察して消えてゆく。

「まつり」
「まつりごと」
「まつりあげる」

まつりの由来は、飢饉や水害など、困ったことに願を掛け、
願がかなったときにお礼としてまつりをおこなう。

政治とは、民衆の抱える問題を、「まつり」(纏り、まとめ)、
それを、神社に「まつりあげ」、「まつりごと」として遂行する。
そういうものなのかもしれない。

鬼とは、桃太郎に退治される悪者ではなく、
誰もの心の中にある、荒ぶる心なのかもしれない。
荒ぶる心は、時に戦争を引き起こし、時に大事業を成し遂げる。
荒ぶる心を、みなのために、まつる。
それが、まつりなのかもしれない。

神社での奉納を終えた一行が、解散せずにどこかへと渡る。
どこへ行くのかと思えば、寺でも奉納するのである。

神社も寺もすべての正義をのみこんでゆく。
それが、日本人の本領なのかもしれない。

狭い村社会で、みんなが仲良く暮らせるように、工夫を凝らして生きている。
そんな意志が垣間見えた。

ひとりひとり異なる「正義」を、なんとかみんなで飲み込んでゆく。

この精神は、グローバル社会で生きればすばらしいのだが、
はたして、世界は、そう動いてゆくだろうか。

日本の保守、アメリカの保守、民主主義、共産主義、イスラム教、
八百万の精神は、どこまで飲み込み続けられるのだろうか。

道は、果てしない。

そんなことを感じた。


そして、この祭は、これ以降再開していない。











コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

日記内を検索