ペットロスゥ?八ッ!っと言っていたが
いざ16年も共に暮らしていたものが居なくなると予想以上にダメージがあるものだ。

猫を亡くしてひと月弱、昨日も薄暗い寝室で、もう居ない猫を踏まないように歩く自分に立ちすくんでしまう。いまだにこんな調子だが、だいぶましになってきた。

老猫で腎臓も弱り病人食に切り替えても吐き戻しを繰り返していた。
夜中にもう使っていない風呂場でドタンという音がし、見に行くと水の所無い風呂桶に横たわっていた。虫の息だった。
助け出し、寝かせても、目を離すと歩き出し、また風呂桶に転がり込む。
死ぬ気なんだと、はっきりわかる。
午前5時。
連れて行く病院も無い。
10時の診察開始までもつだろうか。
家族を起こし、見守る。
なにもできない。
息がだんだん弱く早くなる。
いたたまれない。
ふと、金魚の水槽を見ると金魚もつらそうに泳いでいる。
金魚まで死にそうだ。
なにもできないから水槽の水替えをする。
なにかをしていないといられない。

診察開始時間が近づく。
もう、このまま、静かに看取るべきか、最後まで希望に向かってあがくべきか迷う。
息は弱い。
後で後悔したくない。
病院に連れて行こう。
点滴でもすれば、ケロッと治るかもしれないじゃないか!
クルマをガレージから自宅前に運び、猫をケージに入れ、フタを閉じようとすると、もうぐったりと倒れ動けない体勢の猫が、大きな声で「ニャーー」と叫んだ。
信じられないほど大きな声だった。最期の必死の訴えだった。
そうか、そんなに病院はキライか。
そんな声を聴かされたら、もう、連れていけない。泣きながらクルマを車庫に戻す。

ほどなく彼は旅立った。家族全員に見守られながら。



妻は火葬が骨壺がという。
一番懐いていたのはこの人だけに、心配だ。
葬儀とは、忘れる過程の演出だ。
心の傷を丁寧に塞いでゆき、完全に忘れるまでの過程をすべて良い思い出で埋め尽くして行くことだ。
居ないという事を認識し、納得し、やがて居なくて当たり前になるための過程なのだ。
丁寧な火葬は良いかもしれないが、骨壺など抱えては、明日が遠のくと思う。
いろいろ探し、クルマで1時間程度の場所に動物霊園を見つけ合葬してもらった。
静かな山の中で、毎月法要もしているそうだ。
5月末には参加したが100人くらいが集まり住職の読経まである盛大なものだった。こんなにたくさんの人が…。

そのあとすぐに金魚まで死んだのは痛かったが、メダカを10匹買ってきて水槽に放した。
新しい命は、全く違う新しいビートで華やかに泳ぐ。
新鮮な体験は心を癒してくれる。

そんな風にどうにかこうにか、やってゆくしかない。

ホームセンターの猫の餌売場を通っても泣かなくなった。

時間がすべてを溶かして癒してくれる。


残された弟猫は、急に人気者になり、ちやほやされて当惑気味だ。
これまで賢い兄貴の下でバカ猫扱いされてのだから。

ただ、人間が全員出かけると、彼はとっても淋しそうだ。

ガマンしろ、ホントはみんな淋しいんだ。



コメント

きゃおる
2013年6月12日9:02

> ペットロスゥ?八ッ!っと言っていたが

↑全文これというのは…いったい、どういう趣向…

たま
2013年6月14日1:23

しっつれいしました。
スマホで書いて、なんかひっかかったみたい。
12回も修正したからかな。

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