本日のJMMより

2012年12月5日 日常
全文引用は、ただの情報泥棒だとはわかっているが、メールで送られてきて、まだ、HPに掲載されてないので、リンクが張れない以上、転載するしか紹介方法はない。違法だか礼儀知らずだかは知らないが、良くない方法で無断転載させていただく。


デフレ脱却は、ここに書かれているような対策が正しいと思う。
目先の選挙公約で「列島強靱化計画」などと土建屋票を集めているヒマがあったら、ちゃんと暮らしやすい社会、子供に堂々と「良い国だ」といえる社会を作れば良いのではないか?
そう考えると、票を入れるべき政党は、どこにもない。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■今回の質問【Q:1289(番外編)】

 総選挙がはじまりますが、選挙後の政界再編もよく話題になります。政権を担えるような新政党が誕生すると仮定して、日本経済を活性化するための基本政策というのはどういったものが考えられるのでしょうか。

------------------------------------------------------------------------
                                村上龍
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 ■ 水牛健太郎 :経済評論家

 私は最近、日本経済を再生するためには、狭義の経済政策では十分ではないのではないかと、考えるようになりました。いわゆる「デフレ」は、人口の減少傾向が大きな要因となっていることは間違いありません。一方、人口は経済によって多少左右されることはありますが、もし仮に経済のパフォーマンスがよくなっても、それだけで人口が増加基調に戻ることはないでしょう。

 バブル崩壊後の二十年にも、比較的景気がいい時期はありましたが、出生率はほぼ一貫して減少してきました。要するに、人口の減少という「社会的」な問題が一つの要因になってデフレという経済現象が起きているのですが、逆に経済の改善のみによって人口の増加という「社会的」現象を引き起こすことはできないわけです。つまり、現在の日本においては社会的な問題が主動因であり、経済は従だと言えるかもしれません。

 人口減少、ひいてはデフレにつながっているのは、どういう社会的な問題なのか。晩婚化、非婚の増大、子育て環境の未整備等、様々な問題がありますが、その根底にあるのは個人の自由(自己決定権)の欠如ではないかと私は考えています。個人が自由に生きられないために、多くの人は思うように力を発揮できず、不全感に陥っています。他人に対する不寛容の広がりはそのためですし、それが子育てのしにくい社会を生んでいます。そして、出生率が下がるのは、子育てのしにくさに加え、結局のところ、生きるに値する社会ではないと人々がどこかで感じているから、子孫を残す気にならないということだと私は解釈しています。それは、年間三万人に及ぶ自殺者の問題とも重なっています。

 不自由さの最たるものは、やはり「働き方」にあるのではないでしょうか。就職活動の風景を見ているとわかりますが、日本の企業文化は、同じ日本人の若者にとってすら、異様な「異文化」と受け止められているのです。彼らは生きるために、なじみのない「異文化」に必死で順応しようとしますが、そのためには言葉遣いや服装、時には性格まで変えて、違う人格にならなければなりません。まるで、ニューギニアやアフリカの村に住み込む文化人類学者が、変わった風習や言葉を一生懸命学んでいるかのようです。同じ国の中で職を得るために、そこまで大きな犠牲を払わなければならないというのは、どう考えてもおかしなことです。

 いったん企業に属するや、使用者と労働者の対等な労働契約などというのは建前で、そこにあるのは一種の身分社会であり、社内を支配する「空気」に従い、自分の意思を殺し、要求に従って、いつ終わるともしれない残業に耐えなければなりません。その極端な例が「ブラック企業」と言われるもので、使用者に対して従順であるべきだという日本人の常識を意識的に悪用し、従業員を徹底的に搾取します。「ブラック企業」はアメリカでは成立しないと思います。労働契約を度外視してでも使用者に従うべきだという「常識」がそもそもないからです。「ブラック企業」は極端ですが、しかし日本企業の在り方を確かに反映した一種の戯画です。どの日本企業も、経営者が「従業員を使いつぶす」と決心したら、いつでも「ブラック企業」になりうるのです。

 今の日本社会は、戦前などに比べればはるかに自由で平等な社会になっています。ですから、自由で平等な一般の市民社会と、権力と金の論理が支配する企業内の文化とのギャップは非常に大きく感じられます。そんな「異文化」に飛び込む勇気が出ない若者も一定数いますが、彼らは非正規労働者としてかつかつの生活を強いられることになります。かつてであれば家業など企業外の受け皿も一定数あったのですが、今の日本では、企業外の仕事は少ないためです。生まれつきの富裕層でもない限り、企業に属しなければ、貧しい生活を送らざるを得ません。

 要するに今の日本では、「自由」と「豊かさ」が両立しないのです。ですから、「自由」であろうとすると、結局は「無力」になってしまいます。今の日本人を覆う無力感の正体はこれではないかと私は考えています。(私が「自由」というのは「時間がある、暇だ」という意味ではなく、自己決定権がある、つまり自分の運命の手綱を自分で握っている、という意味です)

 ちょっと昔であれば、自由でなくとも豊かならよかったのです。しかし今の日本人は、昔よりもはるかに自由を重んじています。豊かであっても自由でなければ幸福を感じられません。しかし、よほどの特別な才能でもない限り、両方を得ることはできません。自由を手放して経済的な安定を得るか、それとも自由でも貧しく不安定な生活を送るか。どちらにしても不全感が残ります。

 本当は、「自由」と「豊かさ」は矛盾するものではないはずです。むしろ最大限に自らの自由を生かして適切な選択を行ったものが報われ、豊かになるのが本来の姿ではないでしょうか。人間は自由な時に最大の能力を発揮するからです。ところが今の日本では、不自由な文化を持つ大企業が経済の実権を握っています。だから、誰も最大限の能力を発揮することができません。日本経済が停滞している根本的な理由はそれだと思います。

 「最大限の能力」というのは結局のところ、創造性のことです。技術でも何でも、大きな枠組みを設定する者が、一番大きな利潤を獲得します。日本の経済が停滞している一因は、そうしたパラダイム設定が自分たちの手でできず、外国で設定された枠組みの中での後追いになっているからです。何も不思議ではなく、不自由な人間にはブレークスルーはできないというだけのことだと思います。

 このように考えると、日本経済再生のためには、企業の文化が変わること、それと同時に企業外で働く選択肢が増えること、それによって日本の経済社会において、もっと多くの人が自己決定権を握れるようになること。つまり、日本の経済社会がもっと自由で風通しのよいものになることが決定的に重要だと思います。

 これを政策という形にすれば、狭義の経済政策以外に、社会政策、労働政策、教育、税制など、ありとあらゆる分野を網羅することになると思います。起業を促進し、フリーで働くことが税制や年金、社会保険などの面で不利にならないようにすること、企業の従業員に対しても、在宅勤務や短縮勤務など多様な働き方を制度的に支援すること、残業手当の支払い・有給休暇の消化など労働契約の遵守を徹底することなど。それに加え、教育の機会均等の促進、男女平等の推進、子育て支援の強化など、関連する様々な政策を通じて、社会における「自由」の価値を促進し、経済の世界にも「自由」を浸透させることだと思います。
 
                         経済評論家:水牛健太郎

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ●○○JMMホームページにて、過去のすべてのアーカイブが見られます。○○●
          ( http://ryumurakami.jmm.co.jp/ )
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

日記内を検索