グローバル化とはじめて聞いたとき、SONY PLAZAのイメージが湧いた。
世界中から見も知らぬ楽しいものが日本に入ってきて、生活が豊かになり、ひとり一人が好きなものを選び個性あふれる社会になるように思った。

現実には、安物があふれた。

世界で一番豊かで面白い物にあふれているのは日本だった、と気づかされた。世界で一番重要なのは価格であり、それ以外のおもしろさは全く重視されていないのだと気づかされた。

ケインズや神の手なんて、貧乏人の理論だ。

だから、マックスバリュではじめて買い物をしたときに、キライになった。
トップバリュ商品は大嫌いだ。
我慢できる最低限の品質で他社より少し安い価格。バリュー系商品のトップかもしれないが、トップクラスの価値などはどこにもない。
そこにあるのは、「これでもいいか」という我慢。人生をあきらめた気分になる。

そう認識していたんだけど、ちょっと違う視点で見るようになった。

ついでだから、ちょっと脱線し、この間見たトップバリュ納豆の発売過程が面白かった話をする。

関西で納豆はあまり食べないので、我が家で納豆を食べるのは私だけである。
納豆の値段と味に関しては、私の担当で消費も私の担当である。だから納豆の棚は注意してみている。
たいていのスーパーでは納豆3パック98円が相場である。
トップバリュ納豆発売前数ヶ月、ある会社の納豆が3パック68円で売り出された。あまりに安い。納豆は趣味で食べるし、趣味に安物は似合わない。買っていないから味は知らない。安売りだろうと思っていたら、数ヶ月ずっと68円で売り続けた。そして、ある日、その聞いた事もない会社の納豆は姿を消し、トップバリュ納豆が3パック78円で発売となった。たぶん同じ商品がトップバリュの名前で10円高い。しかし他社より20円安い。30円値切って、10円利益を乗せる。これがトップバリュ商品なのだな。おもしろい。
無名の会社を選定し、低価格で大量に買い付け、実売量検証をし、売れる事を実感させ、PB商品として発売する。
定期的に店頭を眺めているとこんな発見があるので面白い。

そうやって実績を積み増やしていったトップバリュ商品はどんどん増え、「トップバリュ週間」などを通じ、家庭に侵入してゆく。全国統一の味、全国統一の品質、全国統一の価格。面白みのないのっぺりとした日本国が蔓延してゆく。
日本が一色に染まってゆく感じが大嫌いだった。

しかし、最近、また違う変化を感じた。
マックスバリュからナショナルブランドの商品が姿を消し始めている。
これまでは、トップバリュ商品とナショナルブランド商品を並べ、価格差を見せつけ、トップバリュ商品を売ってきたが、トップバリュ商品が市民権を得たので、問題のなさそうな商品から徐々にナショナルブランドが消え始めている。
最初に気づいたのはビーフンだった。味付きのケンミンの焼きビーフン袋麺は、いまだにケンミンブランドで販売しているが、調味料などが付いていない素のままのビーフンはトップバリュ商品しか置かなくなった。これは、他の商品でも起こっているはずだ。実際の具体例は列挙出来ないが、ざっと棚を眺めるだけで、トップバリュ商品ばかりが目に付くようになり、確実にナショナルブランドは追いやられ、トップバリュ商品のみにシフトして行っている。

ちょっと気持ち悪い状況ではあるが、これは、経済原理から言えば、正しい。

同じ商品を二つ置くのはコストがかかる。売れる商品に絞るのが正しい。「儲かる。」これを追求すればエブリデイ・ロープライスの西友のようになるはずだ。
イオンが地道に進めている利益追求活動の究極系はアメリカにある。アメリカの大手流通ウォルマートの子会社となった西友はいきなりウォルマートの「エブリデイ・ロープライス」を導入し、総スカンを食らった。日本の消費者がいきなりエブリデイ・ロープライスを見ると、あまりに貧乏くさく、拒否感が強い。特売を行わない、チラシも撒かない、商品は絞る、照明も最低限。いきなり見せられたら拒否感があったこの商法だが、マックスバリュは、ウォルマートへと至る道を地道に切り拓いている。

そして、私は、「あっ、そうか」と気づく。

大規模流通業が個人商店を食いつぶしてゆくと思っていたが、これは、社会にとって良い進化なのだ、と。

大規模小売りの正しい進化は、大量販売のローコスト追求である。特売もチラシもないエブリデイ・ロープライスは究極のローコスト業態だ。ローコスト業態は、最低限の商品を最大数販売する。その原理にそぐわないものは、置かない。みんなは買わないけど私は欲しいなどという商品は売らないし、売ってはいけない。そういう業態なのだ。

それなら、個人商店にも勝ち目は見えてくる。

大規模小売りが見捨てた分野は、山ほどある。特に豊かな生活分野を大量に抱える日本文化にとって売るべき商品は、いやになるほど豊富だ。
そして、日本の流通インフラを担うという責任感は放棄できるのだ。

これまで個人商店は、野に直接生えてきた。
生活インフラのような必需品も支えながら、趣味の商品も扱ってきた。
大規模小売りというのは野っぱらに絨毯を敷き詰めるようなものだ。
生活インフラとしての流通業の最低限の部分は大規模小売りが支えてくれる。今回の震災でもイオンは流通インフラとしての責任を真っ先に果たした。
流通業には、そういう責任感がなければ、成り立たない。
個人商店は、その制約から解き放たれ、絨毯の上に乗っかって、そこから漏れた商品を丁寧に売ればよい。仕事はいくらでもある。

野っぱらに一人で立っていた個人商店は、根こそぎつぶれるが、絨毯が一枚敷き詰められれば、その上に新しい個人商店がボコボコと生まれるだろう。
今は、過渡期だ。

今のうちから、対応し、新しい商店経営を始めた経営者は、地域で頭一つ飛び出せると思う。

そんなことをマックスバリュで考えた。

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