安心・安全ファッショ
2012年4月4日 日常なんだかきな臭い。
ま、私が生レバー大好きってだけのことなんだが、近頃「安心・安全」が錦の御旗になっているのが気持ち悪い。
「安心・安全」は耳触りはいいのだが、度をこすと弱者排除の言い訳となりかねない。イジメだ。
「変な人がいて不安。」「あの人大丈夫?」「嫌だわ、引っ越してもらいましょ。」
その人を排除したら、次の標的ができるに決まっている。世間がどんどん狭くなってゆく。
食の安心・安全は結構だが、生レバー禁止をオカミが決めるのはやめて欲しい。
あらゆる食べ物は危険なものなのだ。
完璧な安全などこの世にはない。
生レバーによる食中毒の発生は、非常に少ない。
刺身や生牡蠣より少ない。
食べる人間が少ないからだ。
不健全な業者がユッケで死者を出したからと、生レバーまで飛び火するのはいかがなものか?
その底意にあるのは「なんか気持ち悪い」という他者への不寛容だ。
刺身は美しい。生レバーは気持ち悪い。そんな独善がまかり通っている。
刺身はほとんどの外国で気持ち悪いと考えられている。
昆虫食より不寛容なものだ。
当たり前だ。生は食中毒の可能性が高い。
生物にとって生命の危険に関わるものは避ける。それは、本能的なものであり当然の判断だ。
それゆえに、生ものを食べる。という事は非常に高い文化の表れでもある。
たくさんの食中毒を経験し、原因を追求し、危険性を排除し、やっとたどり着いた食文化である。
生食は究極の味だ。
捕食者が獲物を捉えた瞬間の喜びの味である。
積み重ねた高い文化背景を抱えて、捕食の瞬間という究極の野生を体感する。
もちろんそれは、スナック菓子に比べれば、野蛮で気持ち悪い食文化だろう。
気持ち悪いからと言って、法規制して、誰も食べてはいけない。とするのは、文化の放棄であり、努力の放棄だ。先人の知恵や努力をないがしろにする文化破壊行為だ。
食の安心・安全は結構だが、自分だけが正しいとするのはやめて欲しい。
そんな考え方、「安心・安全ファッショ」がはびこり出していて、気持ち悪い。
危険の向こうにある未来、希望、可能性。それを否定しないで欲しい。
ま、私が生レバー大好きってだけのことなんだが、近頃「安心・安全」が錦の御旗になっているのが気持ち悪い。
「安心・安全」は耳触りはいいのだが、度をこすと弱者排除の言い訳となりかねない。イジメだ。
「変な人がいて不安。」「あの人大丈夫?」「嫌だわ、引っ越してもらいましょ。」
その人を排除したら、次の標的ができるに決まっている。世間がどんどん狭くなってゆく。
食の安心・安全は結構だが、生レバー禁止をオカミが決めるのはやめて欲しい。
あらゆる食べ物は危険なものなのだ。
完璧な安全などこの世にはない。
生レバーによる食中毒の発生は、非常に少ない。
刺身や生牡蠣より少ない。
食べる人間が少ないからだ。
不健全な業者がユッケで死者を出したからと、生レバーまで飛び火するのはいかがなものか?
その底意にあるのは「なんか気持ち悪い」という他者への不寛容だ。
刺身は美しい。生レバーは気持ち悪い。そんな独善がまかり通っている。
刺身はほとんどの外国で気持ち悪いと考えられている。
昆虫食より不寛容なものだ。
当たり前だ。生は食中毒の可能性が高い。
生物にとって生命の危険に関わるものは避ける。それは、本能的なものであり当然の判断だ。
それゆえに、生ものを食べる。という事は非常に高い文化の表れでもある。
たくさんの食中毒を経験し、原因を追求し、危険性を排除し、やっとたどり着いた食文化である。
生食は究極の味だ。
捕食者が獲物を捉えた瞬間の喜びの味である。
積み重ねた高い文化背景を抱えて、捕食の瞬間という究極の野生を体感する。
もちろんそれは、スナック菓子に比べれば、野蛮で気持ち悪い食文化だろう。
気持ち悪いからと言って、法規制して、誰も食べてはいけない。とするのは、文化の放棄であり、努力の放棄だ。先人の知恵や努力をないがしろにする文化破壊行為だ。
食の安心・安全は結構だが、自分だけが正しいとするのはやめて欲しい。
そんな考え方、「安心・安全ファッショ」がはびこり出していて、気持ち悪い。
危険の向こうにある未来、希望、可能性。それを否定しないで欲しい。
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