「男性差別」を意識した論文だ。1984年に書かれた。

当時は、70年代のウーマンリブが日本でも花開き、バブル景気とあいまって、女性総合職が確立され始めた頃だ。

そんなころに、「男性差別」を声高に論じても、誰も見向きもしないであろう。



男性には不問律のように「役割」が与えられている。
どっちでも良いことなのだが、「決めるのは男」というプレッシャーが常にある。
「告るのは男」なのである。

昨日、とんねるずの番組で肝試しをやっていた。
木梨憲武が恐がりで、女性二人と廃校に入っていくのだが、女性に先にイケという。それを、みんなで笑う。

これは、男性差別だと思う。

そして、こういう事を言うと、「格好悪い男」と言われる。


デートでは、男性が支払うという不問律もある。
それは、男性差別だ。
そういうことを言うと「ちっちぇー男」と言われる。

もちろん、男女の収入格差がある80年代では、男が支払うのは、社会の不平等を緩和するために、仕方のない事だったかもしれない。


こういう風に、社会のいろいろな場面で、「男」という役割が求められる。
気の弱いオトコノコにとって、「男」という役割はかなりなプレッシャーとして、存在するのは確かだ。


そんなことを、ふと、思い出した。

結婚当初、意味もなく「家長」という言葉に畏れたり、「正しい判断」かどうかに怯えたりした。

しかし、やがて、「決定権」などというものは、大抵、「どっちでもいいこと」にしか設定されていない事に気づく。
重要な決定事項は、選択の余地なんて、最初からほとんど無い。
そして、「決定責任」とは、「どっちがいい?」と相手に確認する責任でしかない事に気づく。

理論や畏れだけで構成された論文には、ほとんど意味がない。実生活で役立たない。

そんなことを思った。



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