仮説

2011年11月16日 日常
ここんとこ鬱陶しいことを書き連ねていたのは、結局この説を書きたかったからで、たぶん、この稿で一切この事には触れないことになると思う。
ただ、一つ一つ、しっかりと自分の立場を語ってからでないと書けないことだと思っていた。


「暴力依存症」についてである。


いろいろ調べているのだが、暴力を依存として解説しているものがあまりに少ない。暴力というものは、他の依存と違って、「相手」が必要である。それだけに「事件」として顕在化しやすい。物理的暴力であれば、刑事事件や民事事件、調停、奥さんが逃げる等、形はともあれ、「事件」として処理される。ただ、言語的暴力は、酒やギャンブルのように家庭内でいつまでも「依存」として潜みやすい。


依存というのは、乱暴に言うと脳内物質への固執である。
酒、ギャンブル、麻薬、なにをしたところで最終的には、ある種の脳内物質が放出され、その報酬で快感を得る。

暴力というのは、最大の脳内麻薬製造工程だと思う。
暴力は「狩り」において必要不可欠なものだ。
狩りは生存本能という動物にとって一番大切な機能だ。
そのため、ありとあらゆる脳内物質が複雑にベストミックスに放出される。
●感覚器官を最大限に活用する覚醒物質
●筋肉の活動力を高める興奮物質
●自分や相手の痛みを感じなくさせる麻痺物質
●狩りそのものを推進させる快感物質
これだけの物質が脳内に一度に放出されるのだから、快感は強い。
動物にとって一番大切な行動なのだから、当たり前だ。
それゆえ、依存性も高くなってしかるべきだ。


私は、世の暴力的犯罪は、依存によるものが結構あるのではないかと考えている。
法律、罰則、それらはぞの依存を断ち切るための社会システムとして機能しているのだろうか?
「どうしてもやっちまうんだよ」というタイプの受刑者に依存の克服プログラムが組まれているのだろうか?


一度、暴力依存に陥ると、麻薬中毒患者と同じ事になる。
どれだけ嘘をついてでも、麻薬を入手しようとする。
つまり、暴力をふるおうとする。

暴力には、他の依存と決定的に違う点がある。
それは、相手が必要だということだ。


これが一番の問題だ。


アルコールやギャンブルは、本人が死んでしまえば何も残らない。借金が残るぐらいだ。
暴力は、違う。
相手を残す。

暴力の問題点は、「暴力を受ける依存」も生みだすことだと思う。

暴力を受けると、生存本能を最大限に使って生き残ろうとする。
そして、やはり脳内物質が大量に噴出される。
多分、種類は異なるが、暴力をふるう側と同程度の脳内物質が出るはずだ。
そうでないと、捕食者から逃げて、生き残れない。
暴力を受けることも、快感につながる。
これが、暴力の連鎖を産む。


暴力をふるう側と受ける側。
どちらの人間も、暴力がない状態は、落ち着かなくなってしまう。
それが暴力依存の状態だ。


やっと、暴力から解放された。
なのに、なんだかもの足りない。
それはあたりまえだ。圧倒的な脳内麻薬が切れるのだから。


ソロになった暴力依存者は、エサを探す。
暴力をふるっていい相手を探す。
相手がいなければ、作り出す。

相手が悪いという理由を作る。
攻撃して良い、理屈をこねる。
最後には、自分から暴力をふるい、
相手を興奮させ、暴力をふるわせる。

正当防衛、社会正義、しつけ、理由はなんでもいい。
暴力に頼って生きているだけだ。




このような連鎖をなくすには、ただ、暴力から離れ、落ち着いた暮らしをするしかないのだろう。
私の中にも、暴力依存の気が見て取れる。
興奮は体に毒だ。

だから、もう、こんな事は一切書かない。



くだらない与太話だけ書き続けることにする。

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