ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D
2011年8月24日 ゲーム
懐かしい。
そして、今でも楽しい。
それにしても13年も前になるんだなぁ。
そうみると、確かにあちこちが古い。
馬で大草原を駆け抜ける楽しみ。
それは「ワンダと巨像」で、よりクオリティーの高い、そしてより広い世界を馬で駆け抜けた経験からすると、あまりに狭い。
ポリゴンも良く作ってあるが、見えないところではかなり手を抜いている。
6賢人のしゃべりもいまならフルボイスだろうし、素晴らしいエンディングもフルオーケストラではなく、ビープ音をアレンジして作られている。
たが、時のオカリナのすばらしさは、そのクオリティーバランスにある。
有限な資源を最高のバランスで配分している。
ラスボスも3段階変身せず、二段階変身で終わっている。
ちょうどいい。
エンディングスクロールでは思わず涙が出そうだった。
別れと出会い、現在と未来を行き来する「時のオカリナ」が生みだす感動。
名作SF「夏への扉」を思い出した。
さて、思い出話はこれぐらいにしておいて、3DS版なのだから、肝心の3Dの話をしよう。
ニンテンドー3DSの最大の問題点は、裸眼3Dの問題点と一致する。
レンチキュラーにしろ視差バリアにしろ、モニターを斜めにしてゆくと、どこかの角度でチラリと画面が切り替わる。
据え置き型のテレビなら良いのだが、携帯ゲームは手で持つので、アクション性の高いゲームシーンで、激しい動作が必要になると、手の動きは激しくなり、目玉と画面の角度も頻繁に変わる。
難しい面になればなるほど、見づらくなり、等比級数的に難易度が上がってしまう。「みえねぇええ~」と叫んでしまうわけだ。
リッジレーサーでも、レイトン教授でも3DSのゲームはすべてこの問題を抱えている。
今作でも、そういう場面は何度か経験した。
ただ、他のゲームよりはかなりマシな感じはした。任天堂はすでにかなり研究しているのだろう。他社製ゲームとは頭ひとつ上に抜けている。
3Dの深度はかなり深い目に設定されている。
3Dは「飛び出す」ではなく「深さ」が勝負だと私は思っているのだが、世間では「飛び出す」という表現が使われるので、かなり強調して見れるように造り込んでいるのだろうか?それとも、子供の目の幅だとこれぐらいが丁度良いのだろうか?
私の場合、3D調整スライダーは2Dとの境目程度まで緩くした方が見やすかった。そうでないと、ガノンドロフの顔の堀の深さが常人離れしてしまう。
ガノンドロフといえば、ゼルダ恒例、ラスボスとのテニスなのだが、これは3Dがやりやすかった。
敵の放つプラズマ球がこっちに飛んでくる感じが直感的に解る。剣で打ち返すのもニンテンドー64当時よりよっぽどやりやすい。
3Dによる世界の広がり方も、楽しい。
2Dから3Dになることで、街の存在感が違う。
カメラで見ているのと、そこに居るぐらいの差がある。
モーションセンサーと連動もしているので、見上げるときにちょっと本体を動かすと見たい方が見える。本当にそこに居るみたいだ。
演出的にも、魔力発動などの時に、光の球が立体的にきらびやかに拡がるのなど、3Dならではだと思う。
ただ、没入感と操作感との整合性はどうなんだろう?
コントローラーをぐりぐりするという行為は、没入して主人公になった自分が主人公として行動しているわけなのだが、本体を持って動かしているのは、作品内の主人公ではなく自分自身の行動なわけで、「本体を操作して狙いを定める」という必要がある度に、没入から解け、我に返る感じがある。
これは、3DSという全く新しいゲーム機に従来型ゲームを移植したという問題だろう。
同じような事は、草原を走る時にも感じた。
大画面テレビで感じた、「荒野を駆け抜ける乗馬の気持ちよさ」は、大画面ならではだったのかもしれない。
小さな画面では、大草原という感覚にはもの足りない。
もちろん「ワンダ…」をはじめとする、最新のゲーム体験がもの足りなく感じさせるということもあるだろう。
だが、あまりに雄大感が少ない。本当に同じゲームなのだろうか?
馬の周りに見える平原がどうにもチマチマして遠景まで楽しむという気分になれない。
移植でなければ、馬のサイズを小さくする。という対応もあったと思う。
ただ、そうするとゲーム全体のバランスが崩れる。
「馬を小さくする」=「カメラ位置を下げる」であり、それは、より大きな範囲の確認が容易になる。ということだ。
ゲームにおいて、没入感と総覧性はトレードオフの関係だ。
「馬を走らせながら、時折登場するお化けを流鏑馬で退治する」というゲームが組み込まれている以上、カメラ位置の変更はゲーム全体のバランスを崩してしまう。
この問題は、3DS専用でゲームを制作しないと解決は不可能だ。
もう一つ付け加えるなら、携帯ゲームは、画面自体が自分の手の中にある。
揺るがぬ大地、ではなく、大地を支えているのは自分だ。
自分自身の手のひらにある大地を「雄大」と感じられるのか?
これも、3DSを持ちながらデザインして行けば解は見つかるのだと思うが、移植ゲームには、無理な注文だ。
いろいろ欠点は書いたが、既にクリアしたゲームを13年ぶりとはいえ、最後までやり通した。
これは、たいしたことだと思う。
3D化という「オマケ」はオマケとして楽しいのだが、このゲームを初体験する後進達が増えるというのはうれしい限りだ。
「ゼルダの伝説 時のオカリナ」、このゲームは、やはり名作なのだ。
そして、今でも楽しい。
それにしても13年も前になるんだなぁ。
そうみると、確かにあちこちが古い。
馬で大草原を駆け抜ける楽しみ。
それは「ワンダと巨像」で、よりクオリティーの高い、そしてより広い世界を馬で駆け抜けた経験からすると、あまりに狭い。
ポリゴンも良く作ってあるが、見えないところではかなり手を抜いている。
6賢人のしゃべりもいまならフルボイスだろうし、素晴らしいエンディングもフルオーケストラではなく、ビープ音をアレンジして作られている。
たが、時のオカリナのすばらしさは、そのクオリティーバランスにある。
有限な資源を最高のバランスで配分している。
ラスボスも3段階変身せず、二段階変身で終わっている。
ちょうどいい。
エンディングスクロールでは思わず涙が出そうだった。
別れと出会い、現在と未来を行き来する「時のオカリナ」が生みだす感動。
名作SF「夏への扉」を思い出した。
さて、思い出話はこれぐらいにしておいて、3DS版なのだから、肝心の3Dの話をしよう。
ニンテンドー3DSの最大の問題点は、裸眼3Dの問題点と一致する。
レンチキュラーにしろ視差バリアにしろ、モニターを斜めにしてゆくと、どこかの角度でチラリと画面が切り替わる。
据え置き型のテレビなら良いのだが、携帯ゲームは手で持つので、アクション性の高いゲームシーンで、激しい動作が必要になると、手の動きは激しくなり、目玉と画面の角度も頻繁に変わる。
難しい面になればなるほど、見づらくなり、等比級数的に難易度が上がってしまう。「みえねぇええ~」と叫んでしまうわけだ。
リッジレーサーでも、レイトン教授でも3DSのゲームはすべてこの問題を抱えている。
今作でも、そういう場面は何度か経験した。
ただ、他のゲームよりはかなりマシな感じはした。任天堂はすでにかなり研究しているのだろう。他社製ゲームとは頭ひとつ上に抜けている。
3Dの深度はかなり深い目に設定されている。
3Dは「飛び出す」ではなく「深さ」が勝負だと私は思っているのだが、世間では「飛び出す」という表現が使われるので、かなり強調して見れるように造り込んでいるのだろうか?それとも、子供の目の幅だとこれぐらいが丁度良いのだろうか?
私の場合、3D調整スライダーは2Dとの境目程度まで緩くした方が見やすかった。そうでないと、ガノンドロフの顔の堀の深さが常人離れしてしまう。
ガノンドロフといえば、ゼルダ恒例、ラスボスとのテニスなのだが、これは3Dがやりやすかった。
敵の放つプラズマ球がこっちに飛んでくる感じが直感的に解る。剣で打ち返すのもニンテンドー64当時よりよっぽどやりやすい。
3Dによる世界の広がり方も、楽しい。
2Dから3Dになることで、街の存在感が違う。
カメラで見ているのと、そこに居るぐらいの差がある。
モーションセンサーと連動もしているので、見上げるときにちょっと本体を動かすと見たい方が見える。本当にそこに居るみたいだ。
演出的にも、魔力発動などの時に、光の球が立体的にきらびやかに拡がるのなど、3Dならではだと思う。
ただ、没入感と操作感との整合性はどうなんだろう?
コントローラーをぐりぐりするという行為は、没入して主人公になった自分が主人公として行動しているわけなのだが、本体を持って動かしているのは、作品内の主人公ではなく自分自身の行動なわけで、「本体を操作して狙いを定める」という必要がある度に、没入から解け、我に返る感じがある。
これは、3DSという全く新しいゲーム機に従来型ゲームを移植したという問題だろう。
同じような事は、草原を走る時にも感じた。
大画面テレビで感じた、「荒野を駆け抜ける乗馬の気持ちよさ」は、大画面ならではだったのかもしれない。
小さな画面では、大草原という感覚にはもの足りない。
もちろん「ワンダ…」をはじめとする、最新のゲーム体験がもの足りなく感じさせるということもあるだろう。
だが、あまりに雄大感が少ない。本当に同じゲームなのだろうか?
馬の周りに見える平原がどうにもチマチマして遠景まで楽しむという気分になれない。
移植でなければ、馬のサイズを小さくする。という対応もあったと思う。
ただ、そうするとゲーム全体のバランスが崩れる。
「馬を小さくする」=「カメラ位置を下げる」であり、それは、より大きな範囲の確認が容易になる。ということだ。
ゲームにおいて、没入感と総覧性はトレードオフの関係だ。
「馬を走らせながら、時折登場するお化けを流鏑馬で退治する」というゲームが組み込まれている以上、カメラ位置の変更はゲーム全体のバランスを崩してしまう。
この問題は、3DS専用でゲームを制作しないと解決は不可能だ。
もう一つ付け加えるなら、携帯ゲームは、画面自体が自分の手の中にある。
揺るがぬ大地、ではなく、大地を支えているのは自分だ。
自分自身の手のひらにある大地を「雄大」と感じられるのか?
これも、3DSを持ちながらデザインして行けば解は見つかるのだと思うが、移植ゲームには、無理な注文だ。
いろいろ欠点は書いたが、既にクリアしたゲームを13年ぶりとはいえ、最後までやり通した。
これは、たいしたことだと思う。
3D化という「オマケ」はオマケとして楽しいのだが、このゲームを初体験する後進達が増えるというのはうれしい限りだ。
「ゼルダの伝説 時のオカリナ」、このゲームは、やはり名作なのだ。
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