核反応への反応

2011年6月22日 日常
どうして原子力政策がこんな事になったんだろう。と
そういうことを考えてみる。

原子力は少ない燃料量で大量のエネルギーを得られる夢の技術だ。
という側面と
対処法が未確定の毒を大量に出す。
という側面、

その両方が、推進派と反対派が勝手に叫んでいて、
同じ天秤の両側に乗っかっていない。

だから議論が全く進まない。


無限の電力確保は夢の生活を与えてくれる。
未確定の毒は、無限の恐怖を連れてくる。

原子力技術を推進するなら、毒への対処をキチンと確定させるべきだ。

対処法が確立されれば、恐怖は軽減される。

そんな、根本的な議論が全くなされていない。


毒性の研究なんて、動物実験でいくらでも進められるもんだと思うのだが、
暫定基準なんてやってるようでは、それほど進んでいないように思える。
もちろん、人体実験なんてできるわけもないし、
確率的影響に関しては、数十年の経過観察が必要だろう。
私も不勉強なので、どんな研究がどの程度進んでいるか全く知らない。

なぜ、全く知らないのだろう。

人類に重要な技術なら、基本的な知識は学校で教えるべきだ。
そんな教育は受けてこなかった。
たぶん、いまの若い人も受けていないと思う。

なぜだろう。

軍事機密という面はあるだろう。

しかしながら、カーン博士が技術流出させ、誰にでも核技術が使える現在、
毒性研究と対処法の周知徹底は、人類にとって一番共有するべき情報ではないのだろうか?

核への対処方法がわかれば、軍事的威力は相対的に減ってしまう。
しかしながら、原発がこれほど建設され、核爆弾が一般化されているなら
放射能への対処方法は、もっと積極的に研究されるべきだし、
研究成果は積極的に周知徹底されるべきだ。


そんな議論が全くない。


それは、きっと、「原爆」による戦勝国アメリカと敗戦国ニッポンが、
「原爆」というものへの共通理解を打ち立てることもせず同盟国になっている。
という、このあいまいさの中に全ての根っ子があるのではないか?


みんなが、「それには、触れない」ですましている。

天秤の両端があまりに遠すぎるので理解できないのだ。



推進派は、反対派の言う事を
反対派は、推進派の言う事を
お互いにもっと理解しないといけないのではないだろうか?

もっと、もっと、議論が必要だ。
恐怖ではなく、理解と議論だ。


私は基本的に原発反対だ。

だからこそ、推進派の論点を理解しようと努めている。
自分の中で推進が近づいてきたら、反対派に戻る。
天秤ばかりの中間点はどこにあるのか、
常に、それを考えている。

それにしても、未確定の要素が多すぎる。
夢も多いし、恐怖も多い。

しかし私は未来を信じている。
必要な技術は、必ず開発されると信じている。

例えば被曝による遺伝子損傷を修復できるような医療技術があれば
原子力のリスクは一般的火災程度のリスクにまで軽減できるはずだ。
AIDSが克服されつつある今、
被曝医療の進展を心から望む。


「原子力はコワイ、絶対反対!」なんて事をやってると、被曝医療の道に進む人はゼロのままだ。
そんなことを言っている間にも、日本では54基、世界中で435基の原子力発電所が動いている。
日本人やドイツ人が原発を止めたとしても
フランス人が原発を止めるのは、いつの話だろう。
原発大国フランスには60基もの原発が動いている。
その間、いつ次の事故が起きてもおかしくはない。

例え今すぐ止めたとしても、更地に戻るまで30年。
その間、被曝の危険は去ることはない。

反対運動もいいが、対処法の確立が現実的な解だと私は思う。

そんな議論ができるほど、核反応への反応が静まれば良いのに
と、正直思う。


原発反対運動が、一過性の熱病になりませんように…。

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