橋本治「革命的半ズボン宣言」
2011年6月19日 日常いや、橋本治のこの本を読んだわけではないのですが、
こないだ、「小田嶋隆のピース・オブ・警句」で知りました。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110609/220635/?P=1
日経ビジネス(ユーザー登録が必要)
もう、絶版なので入手不可ということで、
小田嶋氏が記憶でまとめたのが、下記。
この橋本治の著書を引いたうえで、小田嶋氏は、下記の理由で「クールビズは達成不可能だ。」という結論にいたる。
そして、スーパークールビズ成功のためにはと続く、
ま、このあとは、小田嶋氏の夢想が続くので省略するのだが。
なるほどねぇ~。と感心しきり。
さすが、橋本治だ。こんな切れ味の日本文化論を1984年に書いているとはね。
ただものじゃあない。
でもさぁ~。
スーパークールビズなんてわいわい騒いでいるけどさぁ。
おぢさんは、思うのよ。
「開襟シャツ」
っていう日本の伝統があって、
これは、正式な日本のビジネスウエアだったんじゃないのかね?
・ネクタイをはずす。
・上着をやめる。
この2点で、革命的に涼しくなる。
これを実現しているのが「開襟シャツ」だ。
もちろん、「革命的半ズボン」なんて不要だ。
むさ苦しいすね毛なんて、誰も見たくないし見せたくない。
すね毛剃ってるオカマや橋本治には、やせ我慢にしか見えないだろうが
すね毛剃らない以上、半ズボンは絶対我慢して欲しい。
それにしてもスーパークールビズ。
なぜ、「開襟シャツ」じゃ、イカンのかね?
エアコンが普及して、徐々に絶滅した「開襟シャツ」
エアコンが絶滅するなら、開襟シャツが復活すればいいんじゃないのか?
なぜ、「開襟シャツ」ではなくて、いきなりアロハなんだよ。
昔はホワイトカラーしかなかったけど、
いまならカラー開襟シャツを作れば良くね?
そこんところが、どーにもこーにも、わからんと思う、おじさんであった。
こないだ、「小田嶋隆のピース・オブ・警句」で知りました。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110609/220635/?P=1
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もう、絶版なので入手不可ということで、
小田嶋氏が記憶でまとめたのが、下記。
1. 日本のオフィスでは、「我慢をしている男が偉い」ということになっている。
2. 熱帯モンスーン気候の蒸し暑い夏を持つこの国の男たちが、職場の平服として、北海道より緯度の高い国の正装である西洋式の背広を選択したのは、「我慢」が社会参加への唯一の道筋である旨を確信しているからだ。
3. 我慢をするのが大人、半ズボンで涼しそうにしているヤツは子供、と、うちの国の社会はそういう基準で動いている。
4. だから、日本の大人の男たちは、無駄な我慢をする。しかもその無駄な我慢を崇高な達成だと思っている。暑苦しいだけなのに。
5. 実はこの「やせ我慢」の文化は、はるか昔の武家の時代から連綿と続いている社会的な伝統であり、民族的なオブセッションでもある。城勤めのサムライは、何の役にも立たない、重くて邪魔なだけの日本刀という形骸化した武器様の工芸品を、大小二本、腰に差してして出仕することを「武士のたしなみ」としていた。なんという事大主義。なんというやせ我慢。
6. 以上の状況から、半ズボンで楽をしている大人は公式のビジネス社会に参加できない。竹光(竹製の偽刀)帯刀の武士が城内で蔑みの視線を浴びるみたいに。なんとなれば、わが国において「有能さ」とは、「衆に抜きん出ること」ではなくて、むしろ逆の、「周囲に同調する能力=突出しない能力」を意味しているからだ。
この橋本治の著書を引いたうえで、小田嶋氏は、下記の理由で「クールビズは達成不可能だ。」という結論にいたる。
背広は権力だ。
同時にそれは、権威の表象でもある。
だから、オヤジはそれを簡単に脱ぐわけにはいかない。
脱いだらさいご、魔法がとけてしまうからだ。王子様がヒキガエルに戻るみたいに。
職場の服装は、地位を象徴している。逆に言えば、地位を表現しない服装は、働く者の身構えとして不適格だということになる。
料理人が帽子の高さで序列を表現し、相撲取りの世界が番付に応じた細かい服装規定を引き継いでいるのは、気まぐれや偶然の結果ではない。彼らの世界は、そういうふうにして成員の力関係を確認していないと正しく機能しない。そういうふうにできているのだ。板場の見習いがシェフに向かってタメ口をきくようなレストランは信用できない。そういう調理場で作られるメニューは料理に不可欠な精妙な統一を実現することができない。地位はそのまま指揮系統であらねばならず、指揮系統は完璧なレシピを実現するためのシステムとして、常に正確に機能しなければならない。
〈中略〉
地位は視覚化される。
新入社員は、独身の若者らしい寝ぐせを帯びて出社し、課長は課長にふさわしいネクタイを選ぶ。もちろん執行役員は一目でそれとわかる仕立てのスーツで朝礼に現れる。そういう部分で行き違いがあったのでは職場の秩序は維持できない。
かくして、血肉化されたサル山構造は、美意識に昇華する。
とあるメガバンクの支店に勤務する入社3年目の行員・山田某25歳は、自分が選ぶべき背広の材質と値段と色について、もはや迷わない。それは、あまりにも一目瞭然だからだ。支店長に連れられて行くキャバクラでおしぼりを受け取る順番を間違えないようになり、ボックス席に座る席順を自然に選べるようになった頃から、彼は、ビジネスの勘所を理解するようになったのだ。スーツの選び方は、そうしたあまたあるビジネスマナーのうちのひとつに過ぎない。
ところが、クールビズには、スタンダードがない。無論、美意識も備えていない。と、山田は何を着ていいのかわからない。課長がポロシャツだとして、オレがポロシャツでかまわないのか、そこのところの判断がつかない。とても困る。
〈中略〉
40過ぎの腹の出たオッサンであるオレが、ポロシャツなんか着たらどういうことになる? オレだって自分が見えてないわけじゃない。最悪な結果になる。そんなことは、はじめからわかっている。ポロシャツにチノパンみたいなだらしない格好をして見栄えがするのは、若いヤツらだけだ。どうせ、山田あたりは5割増しぐらいに輝いて見えるんだろうし、それに比べたらオレなんか話にも何にもなりゃしない。一緒に並んだら映画俳優と付き人みたいな絵柄になる。冗談じゃない。
〈後略〉
そして、スーパークールビズ成功のためにはと続く、
スーパークールビズを成功させるためには、なんとかして序列を持ちこまなければならない。
たとえば、ダンヒルのアロハだとかバーバリーの短パンだとかを大々的に流通させる。カジュアルのブランド化。文春の広告特集とかがやっているアレだ。ヴィトンのスニーカー6万3000円だとか。悪い冗談みたいに見えるが、あれはあれで案外現実的なのかもしれない。
役員クラスには、上下で40万円ぐらいする超高級リゾートウェアを着てもらう。
ここにおいて、ようやくエレガンスが発生する。男のエレガンスは、シェイプやカラーには宿らない。あくまでも値段と肩書き。そこにしかエレガンスの拠り所はない。
と、40代の課長で、5万円のアロハに3万5000円の革サンダルぐらいな見当になる。ボタンは白蝶貝に金の縁取り。そういうところに抜け目なくカネをかけて、しかるべきディグニティーを憑依させる。
三年目の山田は吊るしのバーゲン品。ポロシャツの左胸にはケチャップの食べこぼしをあしらい、短パンは、あえてサイズ違いの一品を選ぶ。それぐらいのことはしないと上司のご機嫌を取り結ぶことはできない。
とはいえ、道のりは遠い。
「このアロハから見て、この人は課長クラスだな」という審美眼ないしは鑑識眼が、内外に共有されるようになるまでには、どう短く見積もっても五年やそこらはかかる。
短パンみたいなブツを通して取締役の威厳を感じ取るに至る社畜な感受性が、若い世代のビジネスパースンの裡に果たして本当に育つのかどうか、先行きははなはだ心もとない。心配だ。
ま、このあとは、小田嶋氏の夢想が続くので省略するのだが。
なるほどねぇ~。と感心しきり。
さすが、橋本治だ。こんな切れ味の日本文化論を1984年に書いているとはね。
ただものじゃあない。
でもさぁ~。
スーパークールビズなんてわいわい騒いでいるけどさぁ。
おぢさんは、思うのよ。
「開襟シャツ」
っていう日本の伝統があって、
これは、正式な日本のビジネスウエアだったんじゃないのかね?
・ネクタイをはずす。
・上着をやめる。
この2点で、革命的に涼しくなる。
これを実現しているのが「開襟シャツ」だ。
もちろん、「革命的半ズボン」なんて不要だ。
むさ苦しいすね毛なんて、誰も見たくないし見せたくない。
すね毛剃ってるオカマや橋本治には、やせ我慢にしか見えないだろうが
すね毛剃らない以上、半ズボンは絶対我慢して欲しい。
それにしてもスーパークールビズ。
なぜ、「開襟シャツ」じゃ、イカンのかね?
エアコンが普及して、徐々に絶滅した「開襟シャツ」
エアコンが絶滅するなら、開襟シャツが復活すればいいんじゃないのか?
なぜ、「開襟シャツ」ではなくて、いきなりアロハなんだよ。
昔はホワイトカラーしかなかったけど、
いまならカラー開襟シャツを作れば良くね?
そこんところが、どーにもこーにも、わからんと思う、おじさんであった。
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