子供の頃、死ぬ。ということが怖くなった。
なんとか折り合いをつけて今日まで生きている。
30過ぎて、何ともない普通の階段で、足をくじいたとき、「あ、オレも折り返したな。」と感じた。
それから、死ぬということをまじめに考えないといけないな。と薄々感じている。
ま、事故とかにあったら、考えるまもなく死んでしまうのだが、
もうすぐ死にますよ。と、聞かされて、取り乱すような不細工なことはしたくない。
でも、たぶん、今なら、まだ、怖いよーとか言って、夜の街に繰り出してしまうだろう。(そのときは、みんな付き合ってね。)
オールザットジャズという映画で死を受け入れるまでの何段階とか言うのをやっていたなぁ。
Byebye Life!と歌い上げていた。
拒否、逃避、恐怖、認識、受容だったけ?うろおぼえ。
その日その日を悔いることなく全力疾走し続けていれば、死はいつでも受け入れられる。なんて、優等生の答えはあるんだけど、なんの役にもたちはしない。
子供のいないダイニングテーブルで、奥さんと昼飯を食べているとき、ふっと、このまんま、定年後もこのままなんだろうなぁ。と、自分の未来をながめたような気になった。
自営業なんだから、定年なんて無いんだけど、引退して、年金だけで食っていくようになった頃には、きっと、この奥さんと、ふたりっきりで、静かに馬鹿話をしているんだろうなぁ。などと思った。
子供は、一人っ子だし、どっかで自由に暮らしているだろう。
なんだか、そんな年の取り方も、いいもんかもしれないと思った。

死ぬことは、まだ全然受け入れられないけど、
一応、理想の死に方だけは、決めてある。
自宅の布団の上で(この時点で現代ではあり得ない設定だぁ)これまでに付き合った全ての人たち(女の子も男どもも)が自分の顔をのぞき込んでいる中で、「ああ、こいつらがオレの人生だ」と思いながら死ぬ。というもの。
できれば、付き合ってきた女の子たちが全部子供産んで、子供たちもまたその子供を産んで、子供だらけの中で眠るのが良い。(フザケンナ)
もう一つの死に方は、昔テレビで見たやつ。
春先の自宅の縁側で、ばあさんと、空を見ながら、「ええ天気やなぁ」などと言葉をかわすでもなく座ってて、「お茶でも入れましょか」と、言うでもなくばあさんがお茶を入れにいって、戻ってきたら、眠るように死んでいる。というやつ。

午後のダイニングテーブルは、後者のにおいが漂っていた。

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